3話 トイレのうら

「今年の冬は、暖かいわねえ」
 母こと高尾たぬ江は自宅にあたる穴倉の中でしみじみと呟いた。自前の冬毛は柔らかく、程よく丸くなった体が女性らしい。あちこちに散らばった落ち葉を一枚一枚確かめながら、たぬ江は今日の服を選んでいた。久方ぶりに人間に化けるのだ。
 狸というと頭に落ち葉を乗せてポンッと煙を出して化けるイメージが何故か浸透しているが、別にイチイチそのようなことをしないでも化けることはできる。考えてみてほしい。夜、暗い道を小さな提灯の灯だけを頼りに歩くとき、背後で「ポンッ」と間抜けな音を立ててふわりと煙が上がったらどうだろうか。人間は賢い生き物だから、それだけで「ああ、狸がいるんだな。しかも俺を化かそうとしてやがる」と思うに違いない。それが火縄銃を持った猟師であればこっちが今夜のおかずになってしまう。それはとてもとても、堪ったものではない。化けるときは密やかに、速やかに、狸とて安全第一な動物なのであった。
 わたくしこと高尾たぬ子とその父ことたぬ蔵は、大人しくたぬ江の着替えを待っていた。
 穴倉の前をうろうろしていたたぬ蔵が足を止めて声をかける。
「おい、まだかかるのか」
「もう少しだけ。葉っぱじゃなくて想像力が大切なの、恥ずかしい恰好をしていけないじゃない」
 たぬ子は暫く見納めになるだろう己の尻尾をふわんふわんと揺らして、スンスンと鼻を鳴らす。頭の中には適当な外套とパーカー、ジーンズとスニーカーのイメージが浮かんでいた。肩ほどまでの黒がかった茶髪はゆるくふたつにまとめて、淵の黒い眼鏡を用意する。今回、手荷物は特にいらないが人混みで浮きそうな気がしたからリュックサックも背負うようにすることにした。
 たぬ子が人間に化けるときは、いつもこの地味で無難な姿を選ぶ。人生ならぬ狸生のうちでこれまでも何回か人間に化けたことがあるが、イメージがしっかりと決まっているほど化けやすいのである。たぬ江のように何を着ようか迷うのもまた楽しいのであろうが、たぬ子はそもそも変化が苦手だし、人間の流行ファッションも興味が無い。同じ姿に繰り返し化け続ければちょっとやそっとの驚きで尻尾が出てしまうことも無かろう。だからきっと、今回も大丈夫。
「おまたせしました、それじゃあ、山頂に向かいましょ」
 たぬ江が明るい顔で穴から出てきた。たぬ蔵を先頭にして、三匹の狸は歩き始めた。一番後ろにいたたぬ子は一度だけそっと振り返った。見慣れた家の穴倉が妙に寂しげに見えた。暫く此処に戻らないんだなあと思った途端、喉が詰まりそうな気分になったからすぐに前を見て、たぬ蔵とたぬ江を追った。
 獣道を分けて山頂に向かって進むと、徐々に人間の気配が伺えてくる。美味そうな飯の匂い、がやがやとした雑音、騒々しい機械音。聞きなれているか聞きなれていないかで答えるなら聞きなれている方だけど、それでもこんなに近くまでくると緊張してくる。心臓がバクバクする。
「トイレの裏が丁度良い、あそこで化けて、出るぞ」
 木々の隙間からちらちらと人影も見えるようになって、たぬ蔵が言った。普段より固い口調だった。まるで自分に言い聞かせているみたいな。
 高尾山の一号路(※人間のルート)を頂上付近まで登ると二階建ての大きな建物がある。外観は何かの展示施設のようだが、実はこの建物は二階建ての大型トイレ施設なのだ。人間御用達だから迂闊に近寄ることは避けたいが、逆に人間の中に紛れ込んでいくには最も適した造りになっている。……というのも、なんとこの大型トイレ施設、入り口から出口までが『完全一方通行』なのである。誰がトイレに入ろうと、誰がトイレからでてこようと、何がそこに紛れていようと、まずわからないのだ。しかも道に沿って造られてあるから、おおよそ北側は草木で隠れている。
「一階の影から出るぞ。ここの一階は、男女両方あるからな。変に周りを見るなよ。落ち着いて、落ち着いてだ」
「わかってるよ、父さん」
「わかっていても、確認だ。確認は大切なんだぞ、人間社会でもだ」
 短い遣り取りを経て、三『人』はアスファルトを踏んだ。視界が一気に高くなる。体が大きくなった分だけ、すんとした寒さを感じた。風がたぬ子の耳元を過ぎ、少しだけ髪が揺れた。
 三匹は三人となった。中年夫婦と、十代後半くらいだと思われる娘。擦れ違う人々と似たような服を着て、表情だけが少し固いが全く問題ない。たいてい、此処に来る人間たちはよっぽどのことがない限り他人の服やら顔やらなんぞ視界に入っていないのだから。
 人の流れは足早にもう目の前の山頂施設に向かっていく。その流れに乗って三人は歩を進めた。
 たぬ子の心臓は喉から出そうだった。久しぶりに人間に化けた昂揚感、穴倉から出た不安感、焦燥、興奮、恐怖、それから好奇心。前を歩くたぬ蔵の古い帽子を見つめたまま、黙々と歩いた。必死だった。置いて行かれたらどうしよう、どうしようと、足を進めた。
「たーぬ子っ!」
 突然背中に強い衝撃を受けた。
 たぬ子は人間とも動物ともとれない濁点に満ちた短い悲鳴を上げた。たぬ蔵とたぬ江が振り向く。
「おじさん、おばさん、お久しぶりです!」
 溢れんばかりの笑顔を浮かべた小柄な若い女性がたぬ子の肩に右腕を回して寄り添っていた。栗色のショートカットからは少しだけ異国のような甘い匂いがした。たぬ子はそろそろ爆発するんじゃないかと思う心臓に右手を当てて、切れ切れに言う。
「……テンさん、あの、今、マジで心臓が止まるかと……」
 やや童顔の彼女こそ、たぬ子の変化の師であり、ミス山中グランプリ王者であり、理解ある人間を夫に持つ四児の母であり、山外活動援助に励む板地テン、その人であった。
「久しぶりだねえ、たぬ子。もう、全然変わってないなあ」
 テンの笑顔は青空の下、とてもよく映えた。

【つづく】

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