鷹と蝙蝠

薄暗闇の中で目が覚めた。あれから何日たったのだろう。
カビ臭いエアコンは四六時中休みなく唸り声を上げている。
手探りで目覚し時計を探す。見当たらない。あの、丸みを帯びたデジタル時計。機械的なアラーム。ないと気付くと、無性に恋しくなる。あの、ホワイトと、シルバーの、可愛い奴。
雨が降っている。ザアザアザアと。木造アパートの屋根を叩く。
起きていますか、起きていますか、と。
起きていますよ、起きていますよ。私はサイドテーブルから携帯電話を見つける。
日付は六月十三日、金曜日。あれから三日しか経っていない。あれから三日も経っている。
三日間、ベッドに潜ったまま過ごした。髪の毛が脂っぽいが、シャワーを浴びる気にもなれない。
徐々に明瞭になる視界。改めて事態を把握しようと加速を始める思考回路。
私は枕に顔を埋める。
空になった薬のシート、床に転がったままのチューハイの缶、棚から落ちた鳥のぬいぐるみ。
枯れたはずの涙で、また世界が滲む。

どうか私を捨てないで下さい
あなたの家庭を壊すつもりも、あなたの幸せを奪うつもりもありません
ましてや離婚も迫りません
ただこれまでと同じ様に、時々会って、たまにメールをもらえるだけで
私は幸せなのです

六月十日。これが、私から要に出した最後のメールになった。
七回別れて七回寄りを戻し、そして八回目の別れ話を切り出された時、初めて私から彼に泣きついた。捨てないで欲しい、と。
私は、情に訴えるのが嫌いな人間だった。女だから、という理由で駅のホームで金切り声を立てて泣き喚くガキにはなりたくなかった。
度々アクセスしていたサイトで知り合った、ゲイバー勤めのミユキはそんな私の話を聞きながら、だけどね、女の涙は最後の武器なのよ、と知った顔で諭すが、生憎私には理解できなかった。
男女の関係は、マジックテープに似ていると思う。凸面と凹面があって、互いが互いを絡めとる事で接着する。凸面同士じゃくっつけないし、凹面同士でもくっつけない。おそらくそれが、一般的と称される男女の関係なんだと思う。
ミユキは磁石。男というN極を求めて、自分のN極を強引に押し出す。磁力だとか理屈だとか、そういうものに左右されない、もっとずっと強い力を身体に帯びながらN極を探している。
それに比べたら、私は? 私も磁石だ。ただミユキと同じ磁石じゃない。電磁石。電流が流れる方向で、プラス極にもマイナス極にもなれる。男でも、女でも、どっちにでも対応出来る万能な磁石。
ただこの身体に流れる電流に任せて、ふらふらと、どっちにもなりきれずに今日を生きている。
「ああっ、もう! そんなに悩む位ならね、飛鳥も決めちゃえばいいのよ。ノーマルで生きるか、ビアンになっちゃうか! あんたは細かい事いちいち考え過ぎなの、わかる?」
「わっかんないよォ、ミユキねぇさん酔ってんじゃないの?」
「あんたほど酔ってないわ! あたしはね、飛鳥の事思って言ってるの。バイセクシャルが悪い訳じゃないの、寧ろあたしは羨ましいわ。あたしは、どんなに好きな人が出来ても結婚出来ない。その人の子供を作る事も出来ない。でも飛鳥は? 飛鳥はどうなのよ?」
「……にィぶんのいち、って所かなァ……。でも別に子供欲しくないしいいや、私痛いの嫌いだから。てゆーかさぁ、彼氏と彼女両方欲しいとかってやっぱ我が儘なのかなあ?」
「もう、あんたそんな性格根底から叩き直さないと話にならないんじゃない? そんなだから沙紀ちゃんにも逃げられちゃうの!」
ミユキはバーに響く大きな低い声で一喝して、カウンターの上に置かれたウイスキーの瓶を取ると自分でオン・ザ・ロックを作り始めた。
別にね、あんたの考え真っ向から否定してる訳じゃないのよ。寂しいのよね、きっと。だからいっぱい求めちゃうのよね。だけどね、あたしは一人の人を愛したい、あたしの全てをその人の為だけに捧げたい、って思う人間だから飛鳥の気持ちはわからないわ。
その隣で、私はベタリと頬をつきへらりとだらしなく頬を緩めて彼女を見上げる。カウンターの冷たさが、火照った顔に気持ち良かった。ミユキのこういう所が好きだ。いいたい事ははっきり言うくせに引き際をわきまえてて、なおかつフォローも忘れない。大人の対応って、こんなのをいうのだろうか。少なくとも、私には出来ない。
沙紀は、私より四つ年下の高校生だった。色素の薄い髪と瞳で、確かどっかの国のクォーターだとか自称していたと思う。私が出会う人は、大抵インターネットのサイトを通してだから、本名も年齢も何もかも、自称でしかない。つまり、話半分に聞いとく程度が妥当という事だ。
「べっつに、沙紀の事はいいのー。あの子は遊び遊び……」
思考が鮮明になればなるほど、手足は鉛の様に重たく呂律が回らなくなる。
女の人とは、初めてなんです。そう言って不安げにそれでも健気に作った笑顔が瞼の裏に蘇る。ウェーブがかったセミロングと左頬に出来たえくぼ、頬に手を添え逸らす視線。ああ、男ってのはこういうのに弱いんだな、と思った瞬間だった。
沙紀は処女じゃなかった。ましてやビアンじゃないし、バイといえばバイなんだろうが如何なものかと思う。初めて入ったホテルでの、あの好奇心が滲んだ瞳と使い込まれて茶色がかったヴァギナがそれを示していた。さほど濡れてなくてもすんなりと飲み込んでいく指。物足りなさ気に喘ぐ様。
所詮彼女は女同士のセックスというモノに憧れと好奇しか持っていなかったのだ。軽く遊んでやるつもりが逆に遊ばれていた、不快感。
自分の口から零れた言葉にそれが一気に蘇り胸を圧迫する。胃が潰される。吐き気を覚える。
「うぇ……ね、さ……」
堪えきれなくてミユキのドレスの端を握り締める。パッションピンクが今は生々しい赤紫だ。
ミユキが何か叫んでる。私の肩を抱きかかえる。足に力が入らなくてそのまま崩れ落ちる。込み上げた酸っぱい感情がどろどろと溢れ返って私を支配していく。
結局、私はどちらでもない。どっちにもなりきれない。
中途半端なコウモリ。動物です、と言ってはその羽根が訝しがられ、また実は鳥です、といえばその身体が好奇の目に晒される。どっちでもあり、どっちでもない、コウモリ。コウモリ。私は、コウモリ。
「吐け」
突然口許が大きな手で覆われ、ガクンと身体がくの字に曲がる。ぐるりと店内が半回転してパッション赤紫が何かを叫んでる。
私の口は開き、悲鳴の代わりに唾液と吐瀉物が溢れ出した。大きな手から溢れ出して、ぼたぼたと床に広がっていく。
「飛鳥! 飛鳥!」
ミユキが叫んでる。バーテンの黒人が雑巾片手に慣れた様子で黙々と床を拭いてる。
私はカウンター席からボックス席へと移されて、横長のソファに寝かされた。
わざと薄暗い照明の天井が、回る。ぐーるぐるぐるぐーるぐる。
店内に流れるバロックも回る。私の胃も、引っくり返りそうだ。
「要ちゃんも! あんたも何馬鹿な事してんのよ!」
ミユキの怒声が聞こえる。低い地声はドスが聞いてて口調と相成って少し笑える。
あれ……、
「……いや、別に。仕事帰りに寄ったらたまたま」
グレーのスーツ姿の男は淵なしの眼鏡を細い左手の中指でクイッと上げた。逆の手をミユキがゴリゴリと音が出そうな程お絞りで擦ってるのが見える。
カナメって……
「仕事帰りってあんたね! 奥さんも子供もほっぽりだしてこんなトコに来るんじゃないわよ! 今何時だと思ってんの!」
ミユキは怒鳴り続ける。要の手首をきつく握り締めたまま、その手の平が真っ赤になってもお絞りを動かす事を止めない。
要はそんなミユキを挑発する様に左手首の内側にある時計の羅針盤を緩慢な動作で見遣り、溜息を一つついてからあっけらかんと答えた。
「終電の三十分前だな」
パシィンと店内に音が響く。ズバッシィンッ、でもよかったかもしれない。ミユキの平手が飛んだのだ。要はよろめき、二、三歩ふらついたが肩を竦めて背筋を伸ばした。一気に静まり返る店内で、私はゆっくりと身を起こす。
「これで、確実に今夜は帰れなくなった訳だが」
真っ赤になった左頬を摩りながら淡々と要は呟く。チークで染まったミユキの顔が一層赤く変わっていく。
「……何でココにいんの」
私は大きく息を吐いてからゆっくりと口を開いた。要と、ミユキと、店内の視線がゆっくりと私に向けられる。ソファに体重を預けながら少しずつ身体を起こす。
「ケリをつけにきた」
要は口を開いた。相変わらず抑揚がない声だった。
「お前とはもう会わない。俺じゃなく別の男を探せ」
「理由を聞きたい」
「わからないのか?」
眼鏡の奥の眼が、すっと音もなく細くなって私を射抜く。その鋭い視線だけで、じんわりと股間が熱くなる。
「……わからない。あなたの家庭を壊す気はない、って、たまに会えるだけでいい、って、今朝、メールで伝えたはずだけど、それが理由なの?」
嗚咽が混じってまだ上手く舌が回らない。そんな自分が情けない上に、思えば思う程勝手に滲んでくる涙が憎らしかった。奥歯を噛み締めると、目の周りの筋肉が痙攣を起こす。
「お前は、囚われないで生きている方がずっと魅力的だな」
要は言い放った。意味がわからなかった。私はただ目を白黒とさせて見つめ返すばかりだ。そんなのはおかまいなしに一方的に要は話を続ける。ミユキでさえ、ぽかんとその横顔を見つめていた。
「まるで鳥だ。強いて言うなら鷹だろうかな。何処かの木の下で大人しくさえずっている様な、そんなタマじゃない。欲しい獲物は哺乳類だろうが爬虫類だろうが鳥類だろうが食いつく奴だ。そんな奴を、俺は飼いならせない」
「は……なにそれ。私は鷹? だったらあんたは獲物だ」
「俺を食い終わった後はどうする」
整然と要は言い放つ。
「鷲という鳥は、誰より高い場所を飛び回る姿が一番美しい」
カウンターの上の飲みかけのオン・ザ・ロック。私のリップグロスが明かりを反射し艶かしく光る。要はそこに口をつけて(絶対わざとだと思う)残ったウイスキーを一気に煽った。
「お前は誰かの元にとどまり続けるよりも、もっと貪欲に飛び回っている方がずっと似合う。俺が結婚していなかったら、いいパートナーにはなれたのかもな」
ふん、と小さく鼻で笑い要は私を見た。
私の知り合いはたいてい、インターネットでゲイやビアンやバイセクシュアルが集うサイトを通して出会った人たちだ。要も、例外じゃなかった。
カランカランとドアベルを鳴らして、要のまっすぐ伸びた背中は歓楽街の夜に消えていった。
残された私はぼろぼろと、一気に涙が雨の様に零れ落ちてきて、言葉を無くした。
ミユキが小さく「カッコいい人……」と呟いたので、私は一体何を今更と酸っぱくてしょっぱくて耳の奥がじんじん痛む不味い唾液を小さく飲み込んだ。

それからこのざまだ。
要からは連絡がこない。当然といえば当然だ。次の日から雨が降り出した。私の心を映し出す様に止まない雨が降り続けた。携帯電話に表示されるニュースのテロップが、例年より一週間ほど遅い梅雨入りだと告げていた。
雨の日、鳥は空を飛べない。木の下で羽根を休めるしかない。
しかし私はなくしてしまったのだ。羽根を休める大きな木を。要という存在を。
携帯が鳴った。ミユキ専用の着メロ。I wannna be love by you. マリリン・モンローの名曲は彼女の十八番だった。
『梅雨明けは二十日頃ですって。その頃にあたし休み入れるから一緒に二丁目辺りで飲みましょ。あんたも部屋に閉じこもってたら気分悪くなるでしょ、空飛べなくって』
ブラックジョークの聞いたメールに溜息ともう一滴涙が零れ落ちた。
梅雨が明ければ鳥は空を飛べる。
鷹は新しい獲物を探し、大空という不夜城を旋回し飛び回るのに憧れ今は夢を見る。

 

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