湿ったアスファルトの香りと苦い若葉の風味が混じった空気が、じんわりと広がっていく、そんな夏のある日の午後でした。

突然、開け放した窓から一匹の蝉が、私の部屋に迷い込んできたのです。
私は汗で濡れた手で、頬に張り付いた髪を払ってそれを見遣りました。
傾いた太陽は雨樋の陰へと隠れ、薄鼠色の雲がゆっくりと空を覆っていくのが、見上げた窓から見えました。
青臭く黴臭い匂いが何処からか溢れ出してきて、私はベッドの上。寝返りさえも煩わしく思い、下着も何も身に纏わないままタオルケット一枚にこの身体を包み白い光と灰色の天井、そして遠慮気味に対角線上の部屋隅に止まった蝉を眺めていました。
休日の午後の住宅街というのは、とても静かなもので、国道を走る車のタイヤが擦れる音が微かに聞こえ、時折何処かの家の雨戸が閉じられ、扇風機が飄々と風を送るだけ。それから小さな寝息が傍らから響いている位です。
蝉は、ミンともジィとも言いませんでした。
私がずっと見つめていたからでしょうか。
雌なのか、雄なのか、子供なのか大人なのか全くわからない、一匹の蝉。ただ天井の隅に留まり堂々微塵も動かない姿は、まるで何かを達観している様な、諦観してしまっている様な、雄大さすら醸し出していました。
タオルケットが擦れ、隣で眠る彼が小さく呻き腕を伸ばしました。
その腕は私の喉に当たって、息が詰まり、一瞬視界が暗くなりました。
私は眉を寄せましたが、安らかに眠る彼の表情を見ると何も言えなくなってしまいました。
渋々とその腕を退かし、私の首の下へと回して頭を乗せました。固い関節が後頭部に当たって、とても心地が良いものだとは言えなかったのだけれども、トクントクンと脈打つ音が身体の中に伝わり響いて私は両目を細めたのです。
私は、天井を見遣りました。
そこに、もう蝉はいませんでした。
再び飛び去っていったのでしょうか。音も無く。迷い込む様に、惹かれる様に。
それはほんの束の間の事だったのですが、私は無性に彼を恨めしく思い、脇の下を軽く抓りました。
彼は小さく呻き、悶えました。
窓の外を風が吹き抜けていき、雨が一雫、窓を叩きました。
そして私は規則的な脈と寝息と温もりを感じて、独りぼっちの蝉の事をぼんやりと思い、緩やかな午後のまどろみに視界の端から溶けていくのでした。

 

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