Good bye sunshine.

除湿に設定したエアコンが灰色の空気を吐き出している三連休の二日目、日曜日。カーテンを締め切った部屋は当然の様に薄暗くて、シングルベッドに二人並ぶのは当たり前だが狭い。私たちはみかん箱の中の異色の仔猫みたいに丸まって身を寄せ合って、タオルケットの裾から足だけ出して緩い緩いまどろみに浸っていた。

冴はこのすっかり白が茶色になった古いタオルケットが好きで一年中、春も秋も関係無く潜って眠る。夏も冬も、クリーニングに出すなんて概念は彼女の頭から欠落しているらしく所々に茶色い染みが目立つ。
「タオルは結構重要だよ。枕が替わると眠れないみたいに」
私が初めてこの部屋にきた時に飄々と彼女は言った。枕が替わると眠れないみたいに、代用品では駄目なのだと。アーモンド形の奥二重を細めて、タイムカプセルを埋めた場所をこっそりとばらす様に。
一年三百六十五日。私はベッドサイドに置かれた麦茶のグラスに視線だけ送る。氷はすっかり溶けていて、薄暗闇の中淡く光ってた。一日一日を重ねるごとに、このグラス一杯分の冴の汗とかそれに溶けてる何かとか、いつもダルそうな表情の原因も染み込んでいっていると考えると、無性に憎らしくなる。こんなものに嫉妬なんかしても虚しいだけとはわかっちゃいるけれど。
西窓から差す午後の太陽光は水玉模様の空色のカーテンを透かしてグレイと白の斑を描く。見上げた天井の暗さ。こめかみが少し痛んだ。ベッドに寝転がったまま、両腕を伸ばす。冷えた空気がチクチク剥き出しの二の腕を刺す。晩夏の一室に薄く浮かぶ影を、掴めるんじゃないかと思った。
隣に並ぶ頭がもぞもぞと白くない白に沈んでいく。起き際の癖だ。膝を抱えて下半身を横にしたまま上体はうつ伏せで低い枕に顔を埋める器用な寝方。膝を抱えれば抱え込む程枕から頭はずり落ちていく。生え際がほんのりと黒に染まってきた明るい茶髪が静かに辺りに広がっていく。
私は先に頭を上げた。冴の寝起きを邪魔しない様に身を起こし両足を伸ばして座る。こんもりと膨らんだタオルケットが隣にいた。かすかに後頭部が重い。前髪を掻き揚げて、ああ、さっきのこめかみもコレか、と双眸を細める。ベッドのすぐ隣に置いたトートバッグの中からポーチを手探りで探して、更にその中からバファリンを二錠抜き出す。パリ、と音を立てて真っ白い錠剤が銀のフィルムを押し破る。咥内に放って温くなった麦茶で喉を鳴らすと冴が枕に肘をついて虚ろな瞳で見つめていたのに気付いた。
真っ白な頭痛薬。喉を圧迫して音もなく消えていく。詰まる感覚を越えてから、ゆっくりと声を発した。
「おはよう」
「……麦茶」
エアコンに負けないほど掠れた、良く言えばハスキーな声で冴がねだる。午前中に彼女からどうぞ、と言われて出された麦茶。黙ってグラスを差し出すと残り半分程度のそれを喉を逸らして一気にあおった。低く喉がなって黄金色の液体が口端から溢れて顎へと伝っていく。手の甲でそれを拭い去り、相変わらずダルそうに瞼を半分下げて、大きな溜息に肩を落とした。
「なんか、変な夢見てた。聞いてよ」
「何?」
「あたしね、ヨーカドーのゴミ箱見てたの。そしたら亜紀が、『冴は身分証明書持たなきゃダメ』って言うんだ」
「あたしが?」
枕に肘をついて上半身を逸らし、両手で顔を覆いながら淡々とした冴の声が響く。エアコンの音が邪魔だった。止めなかったのは多分、頭が冷えた空気を欲していたからだと思う。いつの間にか口許が変な形の曲線を描いてた。くすぐったさとおかしさと、妙に真剣な冴の横顔が脈動に添って痛む頭の中でバターみたいに溶けて混ざってく。
「そりゃあ、歌で満足に食っていける訳ないしさあ、もっともだと思ったの。だから家に保険証取りに帰ろうとしたんだ。そしたらまた亜紀がね、『保険証は顔写真無いからダメ、免許取りなさい』って言うんだよ」
「保険証って写真ついてないの?」
数ヶ月前、私は保険証の番号が変わって新しく写真を撮りに行った。今まで保険証に顔写真なんて経験した事が無くて、不思議な気分になった記憶がある。確かあれは、保険証で間違いないはずなんだけど……。いまいち働いてくれない頭で霞みかかった記憶を遡って、宙を彷徨った視線は壁の水玉を捕らえていた。
「多分、保険証の種類が違うんだと思うよ。会社員って何、社会保険だっけ? うちは国民保健、あたしは一応被扶養者扱いだから」
口許を両手で覆い隠して大きなあくびをした冴の目許にうっすらと涙の膜が張る。差し込むグレイを乱反射して、黒目が少し大きく見えた。
生憎、保健の事は詳しくない。自分のものならまだしも、冴はフリーター。私が知ってる事といえば、自分より二つ年下で、自分より多少大人びた振りをして、今は川柳にハマっている事くらい。よく考えたら、誕生日だとか血液型だとか、そういう基本情報は何も知らない。
「とにかくさ、『免許取りなさい』って言うの、夢の中の亜紀が。顔を照明するには免許だ、って」
寝癖で乱れた髪を掻きながらおかしそうに冴は笑う。こっちの気分なんかお構いなしに。頭痛の痛みが広がっていく、バファリン飲んだはずなのに。黒いもやもやした塊が、頭から眼球の後ろにずっと広がっていく。
「なんだかよくわかんないんだけど、あたしも『身分証明するなら海外でも使えるパスポートなんじゃないの』って言い出してね、そしたら亜紀も『そうだ、パスポートだ』って」
片手をだらりとシーツに落として冴は残された一本の腕に頬を乗せて私を見る。相変わらず重そうな瞼が目にかかって、傾いた髪が頬を隠して、唇だけが緩い弧を描いてる。
「それで目が覚めたんだけどね。うん、明日辺り一緒に海外旅行行こうか、連休ずっと家にいるの暇じゃんね。韓国とかは日帰りも出来るってうちのコンビニにパンフもあるしさ」
唐突な提案に言葉が詰まった。ハイ? と漸く一言発して冴を見ると不思議そうに唇を尖らせてる。
「韓国嫌いだった?」
「そうじゃなくて。なんでいきなりそうなの? パスポートあるの?」
「あー……、そっか。申請って時間かかる?」
「一ヶ月くらい」
「無理じゃん」
「無理だよ」
二人で笑いあいながら私はどうしようもない子、と彼女の髪をぐしゃぐしゃに掻き乱してやった。猫っ毛が指先に絡まって付け根を滑り降りてく。
冴が二つ目の溜息を吐く。
「やー、あたしの誕生日って敬老の日なんだわ。何と無くババ臭い感じがしてあんまり言わないから、毎年寂しくてね」
「それで韓国?」
「そこは適当」
枕に顔を押し付けた冴の声がくぐもって聞こえる。シーツに手をつき私も並んでうつ伏せになる。ぽんぽんと、俯いたままの冴の頭を軽く叩き耳を寄せる。
「キムチ鍋くらいなら作ってあげるよ? 暑いけど」
「牡蠣も忘れないで」
冴は顔を上げて枕元の携帯電話へと手を伸ばす。微笑みながら何度も枕に頬を擦りつけて、神様が降りてきた、と呟いた。
冴は歌人でフリーターだ。すぐに携帯やペンを持ちたがる。ウェブサイトで公開しているらしいその歌は、恥ずかしいからと普段私には殆んど聞かせてくれないのに今日は聞いて、と耳を引っ張った。
「―― 緩やかに日は傾いて熟れていく わたしもソウルも君の手中で ――」
午後の陽射しが柔らかく届く。部屋のグレイが深くなる。白い光が薄くなる。空っぽのグラスが色褪せて見えて、タオルケットに染みこんだ彼女の匂いが鼻孔をくすぐる。白い錠剤は溶けて無くなった。頭痛はもうしない。二人分の呼吸と脈動と瞬きと、エアコンの唸る音だけが静かに反響して過ぎていく休日。

 

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