赤い深海プラネタリウム

辛い事も苦しい事も哀しい事も何もかも全部涙に溶けてしまって、勝手に流れたら良いと思う。

散らかった赤いティッシュペーパーを、小夜子は片付けながら思う。
手首から肘迄を覆う包帯に今更虚しさが込み上げて、些か乱暴に紙屑をゴミ箱へと突っ込んだ。少し擦れた腕、じんわりと傷口が痛んだ。
これは、付加価値である。そう確信した夜だった。
素肌が切れた。血が溢れ出た。それなら痛くなければならない。
常識という概念に縛られた――かといって全くの虚偽でもない――脳味噌の奥で無意識のうちに働くただの知識。
それは本能では無いはずだ。
そうして考えていたら、小夜子はいつしか笑っていた。
妙に愉快だった。
じんわりとした痛みさえただただ愛しく思えた。

「どうして」

奈津は尋ねた。小夜子は黙って首を振った。
そう、と奈津は俯く。
住宅街に沈む夕日が滲むような朱色を投げ掛けてくる日だった。
まるで泣いているみたいだった。教室には二つの影しか無く、小夜子までもが泣きたくなった。
咎められている気がした。それから怖くなったような気もした。急に自分が救い様も無い程ちっぽけな存在である事を改めて認識する。
そしてこの世界は常に一定の孤独と共にあるのだと知る。

「なっちゃんがまた、プリント届けにきてくれたわよ」

扉越しに聞こえた母親の声は、咎めるような蔑むような酷い淡泊さに怒りや哀しみやら一方的な同情に疲れた色を滲ませていて、小夜子の耳を塞ぐ。
胸が踏み付けられているようだと、枕に顔を埋めた。身体がやたらと上下する。上掛け布団が擦れる音。怖くなって視線だけ上げた。
私はおかしくなるかも知れない。そう思った。
いや、既に普通ではないのかもしれない。普通ではない。平凡から離脱した。みんなとはもう違う人間。人間ではない。普通じゃないから。人間は嫌い。普通じゃないから。
パサリと何かが床に落ちる、乾いた音。遠ざかっていく足音に布団の中で耳を澄ます。
パンクしそうだった心臓は嘘みたいに静かで、唇はうっすらと深海の味がした。
深海の味。
この家から、この部屋からほとんど出なくなる前も後も小夜子が深海に行った事はある訳が無い。
ましてや海すらも見た事が無かった。
海の方から流れてくる光化学スモッグが空を覆って排気ガスと鉄骨の音だらけの高いビル。街行く人さえ口を開けば壊れた機械音が鳴り響くような、そんな近代都市から小夜子は出た事がない。
今に息さえ出来なくなるだろう。確信じみた妄想に喉奥が熱くなる気がする。
海の水はとてもしょっぱいらしい。
そして小夜子の血液のしょっぱさも、知らない海水のしょっぱさも、同じなんだと誰かが言った。
ああ、やはり、自分は深海の味を知っている。
静寂と拒絶。嘘と本当。理想と現実。浮遊感、無情感、冷静と興奮、葛藤、そして孤独。
心臓は一度の収縮で全身二巡以上の血液を送り出す。指先が酷く冷たくなっていた。
先程の乾いた軽い音。
母親はプリントであると言った。
起き上がり取りに行こうと思ったが、止めた。布団に身体を沈める。ギシッ、と軋んだ音がして少し身体が揺れた。
やっぱり取りにだけ……。ベッドからドアを見遣り、それから直ぐに目を閉じる。
左腕が疼いた。包帯が擦れただけかもしれない。
布団の中へ、奥で丸くなる。目を閉じた景色は更にもっと暗くなる。
左腕をベッドからだらりと垂らした。いつの間にか電気ストーブは消えていたらしい。
体温で温い布団の外は、思いがけない程冷気が染みた。
海の底迄、夕日の光は届かないはずだ。
このまま醒めない夢を見に、深い眠りについてしまいたい。
目と鼻と口は繋がっているらしい。
穏やかに、冷ややかに、血液がどんなに赤くても、深い海は小夜子を柔らかく包み込んでくれた。
【終】

 

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