思考少女。

「雲が千切れたらどうなると思う?」
あたしの隣に寝そべったちはやが、手にした文庫本から視線を逸らさず尋ねた。
「それはまた、唐突だねえ」
午睡を貪っていたあたしは、レースカーテン越しの薄い光に眼を細めながら間延びした返事を返す。ベッドサイドに置いてあるまりもが、ゆらゆらと瓶の中を転がっている。
うつ伏せのちはやは、どうする? と漸くあたしを一瞥し、更にあたしの方へ身を寄せた。
シングルベッドがぎっしと軋み、あたしの左腕が押し出される。あたしは天井を見上げたまま、右肩をぐいと押しつけてちはや側へと押し返す。
昔からこの二つ下の妹は、眠っているあたしの隣に寄り添って本を読むのが好きだった。一時期……特に去年高校受験であたしが神経質になっていた時期は正直、鬱陶しいと思った事がある。すると彼女はハッキリと云うのだ。「お姉ちゃんの隣が、気持ち良いんだもん」と。
其処まで断言されては、姉として返す言葉が無い。そしてまた此方としても慣れてしまうと不思議なもので、ちはやが修学旅行に行った間は逆に、妙に落ち着かないのだ。一人でベッドに横たわって、寝返りをする。大の字になる。縦横無尽に動ける両腕両脚がかえって収まる場所を無くしてしまい途方に暮れる。夜は夜で、ちはやは自分のベッドかあたしのベッドかをその日の気分で決めるから、別に一人寝だろうと二人寝だろうと関係ないのだが。
ああ、この、反射した水面が天井に映るみたいな、気だるい雰囲気の所為なのかな。
遠くでちりんちりんと自転車のベルが鳴るのが耳まで届く。何処か近くの路地を誰かの車が通り過ぎた。休日の住宅地は平和だ。なんて静かで平和なんだろう。
「お姉ちゃん?」
ちはやが文庫本から顔を上げてあたしを覗きこんだ。長いまつ毛が不思議そうに瞬く。
あたしは身体を横にしてちはやへ向き合う。うつ伏せた彼女は枕を肘掛に微妙に背中を逸らしてる。そんな体勢をよく長時間していられるものだ。
「ごめん。どんな話だっけ」
「だから、雲が千切れたらどうなると思う? って」
先程と同じ端的な問いを繰り返してから、ちはやはもう一度文庫に視線を滑らせた。黒いカバーが表紙を隠してる。
「あ、えっとね。この話の中に出てくる人がさ、『私の生き方は漂う雲、或いは流れる川の様です。』って云ったのね。そしたら別の人が『それでは、雲が千切れたら、水が枯れたらどうするのですか?』って聞いた訳よ。それにこの人は答えるんだけど、お姉ちゃんだったらなんて答えるかなーって思って」
まるで言い訳でもしてる様にちはやはあたしと活字を交互に見ながら告げた。成る程、漸く話が掴めてきた。
「じゃあ、その人はなんて答えたのさ?」
あたしは右腕で腕枕を作りベッドと自分の間に押し込めながら聞いた。
一瞬ちはやは眉を寄せて唇を尖らせ不満げに唸る。それを先に云ったら面白くないとか、あたしはお姉ちゃんの考え聞いてるのに、とか小さな不満がぽつぽつ続く。どうやら先に物語の返事を教えるべきかどうかで彼女自身迷っているようだ。
あたしはそれがかえって面白くて、相貌を細めて彼女の横顔を見ていた。いつの間にか太陽が傾いて、揺れる光の波が天井から角、そして壁へと少し移動していた。窓に沿う形で置かれたベッドからはその変化がとてもはっきりと見て取れる。
ちはやが小さく息を吐いた。どうやら観念したらしい。あたしを悔しげにちらりと見て、少し勿体ぶって活字を口にする。
「ええと……『雲が千切れたら其処からはまぁるい月が顔を出します。水が枯れたら川の底から、美しい玉が現れるでしょう』」
あたしは思わず息を飲んだ。そしてちはやを見つめる。自分で眼が丸くなっているのが分かったので、少し恥ずかしくて笑った。
「……素敵な答えだ」
「でしょ?」
「それ、何の本?」
「図書室から借りた」
答えになってない答えを告げてちはやはあたしを見て得意げに微笑み、布団の中でじゃれる猫の様に脚を絡めてくる。
「ね、お姉ちゃんだったらなんて答える?」
あたしは少し真面目に考えて黙り込んだ。その登場人物の様に、優美な答えなんて即興で浮かんでくるはずもない。妙にちはやに負けた気がして、今度はあたしが口を尖らせる。ちはやの足はひんやりしてる。
「んー……、雲が切れたら切れた雲を数えてみる。千切れたら千切れたで、何か別の形になるじゃん。ヒツジとか電車とか、そういうのに似てるかも知んないからそれはそれで楽しみ、かな」
ちはやは小さく顎を引き、時々相槌を交えて真剣にあたしの唇の先を待ってる。
「川が枯れたらー……、別なモノが今度は流れてくるんじゃないかな。溶岩だったら大変だけど、石油だったら大儲けだし、ファンタだったらグレープがいい」
「ちょっと、なにそれ」
言い切ってから石油って山から流れるんだっけ、とか思ってしまった。頭が働いてないらしい。ちはやがけらけら隣で笑う。明るい声が部屋に響く。あまり悪い気はしない。
「お姉ちゃん、ポジティブだねえ」
あたしにしてみたら酷い答えだけど、彼女を満足させる事は出来たらしい。溌剌とした声は少し上擦っていて、あたしは寝起きの低いテンションで小さく否定した。
「違うよ。あたしはネガティブだから、明るい事考えていたいんだ」
云った一瞬あたしは後悔した。空気を壊した気がして、ちはやに視線を向ける。彼女は成る程と感心した様に深く頷いて、続いた声はすっかり落ち着きを取り戻していた。視線をあたしから本のページへ戻す。
「でもさ、ネガティブとポジティブって表裏一体の同じものだから」
そーだね、とあたしは曖昧な返事を返して天井を見上げた。太陽は大分傾いて壁に光が揺れながらも窓際の天井は薄い暗闇を帯びてきている。会話が途切れ、部屋はまた静かになった。ジー……と重く低く、耳の奥が鳴ってる。
「ちはやは、自分じゃどう思うの? 今の」
何と無くもの寂しくなってあたしは天井を見つめたまま尋ねた。
「あたし? そーだねえ……」
そろそろカーテンを閉めて、電気を付けるべきだろうか。彼女は本から顔を上げない。まだあの綺麗な問答のページを、眺めているのだろうか。
「……雲が切れたら、何かは見えると思うよ」
数分だったとしてもたっぷり時間をとってから彼女はゆっくりと口を開いた。曖昧だけど確信に満ちた柔らかい声。耳鳴りの上を滑る様に、あたしの中に染み込んでくる。
「雲が切れた後、其処にあるのは青空かもしれないしお日様かもしんない。もっと薄い雲があるかもしんないし、その時で無いとわかんない。だからその時考える。……言うなればリンキオーヘン? そんな感じ」
リンキオーヘン。使い慣れていない感じがする物言いが却って場当たり的な彼女らしい気がした。
「で、川はさ」
一拍。彼女は息を吸い、あたしに視線だけ向けて唇に緩い弧を描く。
「歩いてみたら楽しいかも。上流でも下流でもなんか気が向いた方に、取り敢えず。村があるかもしれないし、海に続くかもしんないし。何があるかわかんないから、取り敢えず身を任せてみよう、ってね」
取り敢えず、と二回、彼女は口にした。とても前向きな『取り敢えず』だとあたしは思う。軽い言葉が却って意味深に感じられるのは深読みし過ぎかな。ちはやも自分のネガティブを抱えながらそれでもポジティブに振る舞うタイプなのだろうか。まるであたしの様に。
ベッドサイドの瓶の中でまりもが静かに転がっていた。夕方の赤い日差しが水面を壁に映す。中学二年生の妹の横顔が少し大人に見えた。気がした。あたしはふと呟く。
「あんた、まりもに似てる気がする」
「初めて云われた。けど、割といいかもしんない」
依然として同じページを眺めながら、ちはやはへらりと笑った。

 

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