放課後少女。

クエン酸にはくもりを消す効果があります。

私は大きく口を開いて「はぁ」と吐息を吹き掛けました。
四角い鏡は白くまぁるくくもりがかって、ゆっくりと、ゆっくりと端の方から晴れていきます。
くもりが晴れると私の美人でも無くブスでもない、せいぜい「普通」としか形容出来ない面長の顔が映し出されます。私は、それが嫌いです。名前の次に嫌いです。
クエン酸をほんの少しだけ水に溶かし、雑巾を絞ります。それで鏡を拭いてあげれば、この様なくもりは出来ません。一人暮らしを始める前に、おばあちゃんが教えてくれたのです。私は毎週土曜日――勝手に「お掃除の日」と決めているのですが――になると、クエン酸雑巾で家中の鏡を、ガラスを、拭く事にしています。一人暮らしの小さな部屋ではものの三十分もかからない楽しい作業です。
私はもう一度、先程より少し口を大きく開いて「はぁあ」と鏡に息を掛けました。
さっきより大きな丸い白いくもりが鏡の三分の一程に広がって、晴れるにはさっきより時間が掛りそうです。
学校の鏡もガラスも全部、クエン酸雑巾で拭いてしまえばいいのに、と思います。そうすれば雨の日に描かれる、大量の「へのへのもじへじ」と「あいあいがさ」だって無くなるはずです。
私はこの、白いくもりが嫌いです。自分の名前よりも嫌いです。時間を掛けて晴れていく、鏡を私は見ています。私は黙って見ています。
遠く遠く、六時のチャイムが校内に響き渡りました。耳の奥を滑っていきます。
遠く、もっと遠くに、運動部の方々でしょうか、女子の笑い声が続きました。流れたチャイムの後を追うように耳の奥へと滑っていきます。
ざらざらざらざら。
小窓から差していたオレンジ色の光は、もう黒みがかってきていました。
笑い声が耳鳴りになって、引っかかり続けていました。
ざらざらざらざら。
「あれ」
振り返るときょとんとした顔で、三上先輩が立ってらっしゃいました。
此方の方が、先日、大変不幸な事に私と「あいあいがさ」にされてしまった文芸部の先輩です。
そして満更でもなさそうに「既成事実という事に」などと云いだされてしまっては、一体どうしたらいいものか。先輩の御実家は小さな眼科クリニックを経営なさってますから、安易に眼薬を渡す事も出来ません。
「小泉さん、掃除係?」
「……はぁ」
私はややあって肯定とも否定とも取れる曖昧な返事を返しました。
掃除係なんかではありません。
だけれども、放課後たった一人で、鏡を覗き込んでいるなんてこの女はこんな平凡な風貌でどんなナルシストだと思われるのも酷く心外です。
「他の班の人とかは?」
「……ええと」
「帰っちゃったとか?」
「……ではなく」
「別の仕事?」
「……でもなく」
「じゃあ、えっと」
のらりくらりと会話を逸らし続ける私。
先輩は少し眉尻を下げて、私の顔から視線を逸らしました。
小さな窓からのほんの僅かな射光が徐々に気力を失くしていきます。
ちゃぽん、と水の音がしました。
先輩の眼が小さな瞬きをします。
私はややあって、口を開きました。
「……先輩、此処は、女子トイレです」

正門脇に連なる花壇には、名前も知らない小さな花がぽわんぽわんと咲いていました。もうすっかり太陽は住宅街の陰に沈んでしまい、薄い宵闇が幅を利かせている中、色は定かではありません。
何故か私は、三上先輩の横を歩いて駅へと向かっています。これではまるで仲良く一緒に帰っている様ではありませんか。
恐縮です。凄く恐縮です。先輩が嫌い、という訳では決してありません。が、彼氏不在歴十七年、若干男性恐怖症の私にとってこのシチュエーションはハードルが高すぎるのです。
下校時間をとっくに過ぎた時間帯なので誰か、特に幼い同じクラスの女子に、見られる可能性は低いでしょう。しかし、何処に何があるのかわかりません。明日、学校で「小泉さん、昨日三上先輩と一緒に帰ってたよねーえ」なんてねっとりとした視線と口調で話しかけられたとしたら、確実に私は不登校になってしまう。
がさ、っと音がしたので慌てて顔を上げました。三毛猫が塀の上から私を見下ろしています。壁に耳あり障子に目あり、塀の上には猫が居り。
一年と少し、駅から学校までの通いなれた通学路も何処を如何歩いているのか全くわかりません。ただ、頭が記憶していなくても身体が把握しているようで足はひょこひょこ前へと進みます。
「小泉さん」
私は怯えていました。怯えて顔を上げました。先輩の斜め後ろからの横顔、少し顎を上げて見遣ります。
「あの、そう気を使わなくてもいいんだけど……」
先輩の口調は申し訳無さげです。女子トイレに侵入した一件も重なっているのでしょうが、先輩がそんなに腰が低かったら私は昔の中国の様に床におでこを三回は擦りつけなければいけない気がする。
「いえ、いいえ、そんな訳ではないのです。私は大丈夫です。普段から、ちゃんと大丈夫です」
先輩に心配かけまいと私は見上げて弁解します。スクールバックが肩に食い込みます。にゃあっと猫が応援してくれています。
「うん。ならいいんだけどね」
「はい」
「そういえば、トイレで何、してたのって聞いてもいいのかな」
「はい?」
私は語尾上がりの返事をしました。
見られていた、とは察していました。小泉という女は夕方一人学校の女子トイレで鏡を見ていた、と。先輩の顔を見て、カレーの匂いが漂う通学路をぐるーり見渡して、もう一度先輩の顔を見ます。
「何、とは何でしょうか」
疑問に対して疑問で返す無礼は避けたかったのですが、已むを得ませんでした。
カラスが電線の上から二人を見下ろしています。
「ええと。かなり真剣に鏡を見ていたから」
「はい」
「何か考えていたのかな、と」
「はい」
「何を考えていたのかな、と」
「ああ!」
私は漸く先輩の質問の意図を把握しました。此れ位も察せぬとは我ながらなんという愚行。まるで大学の新歓で勧められたお酒を、大好きな癖に無粋に遠慮して場を白けさせるようなものです。
カラスがカァと鳴きました。馬鹿にしているようですが何も言い返せない。
猫は塀の上で興味無さげに顔を洗っています。さっきからずっと着いてくるのにそんな薄情な……。
私はややあって、恐れ多くも語り始めました。
「鏡を、見ていました。顔ではなくて、鏡を」
「鏡を?」
「はい、鏡を」
「鏡に映った顔じゃなくて」
「私なんぞの顔ではなくて」
「へえ、それはそれは。へえ」
先輩は私の普通な顔を覗き込み、さも興味をそそられた風に何度も頷きます。
「『鏡を見ていた』とは、素敵な表現だね」
「そうでしょうか」
「うん。少なくとも僕はそう思う」
「そうですか」
文芸部の先輩から、言葉について褒められるとほんのり頬が温かくなります。
私は俯いて溢れだしてしまう笑いを見られない様に努めました。
「鏡とは」
先輩が遠くビルの陰に顔を出した、駅の屋根を見て呟きます。
「時間を映し出すものだ」
「時間を、ですか」
「そう、時間を。『大鏡』しかり『今鏡』しかり、現在と過去を映す歴史書には『鏡』と名前が付けられていた。そして」
「そして」
「鏡は、人を映し出す」
私はごくりと唾を飲みました。其れは酸っぱくてとても苦い。
カラスも猫もとっくに何処かへと、去ってしまったようです。
生温い風が通り過ぎます。それが自動車の排気ガスだと気付くまで数秒。
駅前のギラギラとしたネオンが、街灯が、奇怪な玩具の様です。
嗚呼、嗚呼、私は。私は無性に一刻も早く、此処から逃げ出したい!
「『鏡よ鏡よ鏡さん』なんて常套句は、無数の説話に見られる」
先輩は私を見ました。私は視線を逸らします。
「小泉さんは、鏡を見ていた」
「はい」
「そうか、そうか」
「はぁ。でも多分、先輩がおっしゃる程、深い理由は無かったかと思います」
私は控え目に、極力先輩に不快を与えない様に、言葉を選びました。
その為に口調が普段よりずっと遅くなってしまったのですが、先輩は黙って語らせてくれます。
「私は鏡が好きです。それは、嘘をつかない。御伽話と違って、ありのまんまを映すからです。私は、自分の顔が嫌いです。だけど、鏡は、御世辞を云わない。そのまんま、私の顔を映してくれる。だから、私は、鏡が好きです。そして、それゆえに、鏡がくもっていると、無性に許せないのです」
私はたっぷり時間をかけて、胸に有る事をありのままに語りました。そしてもう一度息を吸い込みます。
「だから、クエン酸で磨くんですよ」
「クエン酸?」
「はい。クエン酸を混ぜた水で鏡を磨くと、くもりづらくなくなるのです」
「ほうほう」
「おばあちゃんが昔、教えてくれたんです」
「なるほど」
駅は姿を見せているのに、随分遠い気がします。気付けば先輩は歩調を緩め、私の横に並んでいました。
嗚呼、先程まで、あんなに逃げたいと念じたのがまるで嘘の様です。
私は今、非常に穏やかな心持ちで先輩の隣を歩いています。
ひんやりとした夜の風が火照った頬を撫でていきます。そこで漸く、私は如何に自分が熱弁を奮ったのかに気付き、少し恥ずかしくなりました。けれど、後悔はしていません。
「小泉さんは、おもしろいね」
「そうでしょうか」
「うん。少なくとも僕はそう思う」
「そうですか」
駅前のバスターミナルで先輩は足を止めました。
私は電車で三駅。先輩はバスを使っているそうですから、此処で別れる事になります。
「なかなか楽しかったよ」
「はぁ」
先輩は足を止めて私に向き合い、くもりの無い正直そうな感想を述べました。
私自身はといえば、ええと、それは、憧れの方と帰路を共に出来たのだから楽しくなかったと云えば激しく嘘を吐く事になってしまいます。しかし如何せん、少々其れに至るまでの経緯が不本意な気がして、結局また、肯定とも否定とも取れる曖昧な返事で逃げました。
「それじゃあ」
「はい」
「明日部活があるから、逢えたら其処で」
「はい。お疲れさまでした」
「お疲れ様」
先輩が乗る予定のバスが遠くからやってきます。
いえ、正確にはあの今現在此方へ向かってくるバスが其れなのかは定かではないですが、私にはそんな気がするのです。
「ああ、小泉さん」
先輩は思い出した様に云いました。
「下の名前はなんだったっけ」
「鏡花です。『鏡の花』と云う文字で」
「良い名前だね」
「私は嫌いです」
至極平凡な自分には不釣り合いな位、綺麗な名前だと思うのです、と先輩には云えませんでした。
「そうか、そうか」
「はい」
「明日でも、良かったらメアド教えてね」
「はい。それでは」
「うん。じゃあね。なんかクエン酸、飲みたくなってきたな」
先輩は、やっぱりあの、今し方近付いてきたバスに意味深な言葉を呟いて乗り込んでいきました。
クエン酸を飲む……? ……クエン酸を飲む!
私は心の中で反芻して茫然と、小さくなっていくバスのナンバープレートを見つめていました。
くのサンロクニーゴー。くのサンロクニーゴー。
翌日、先輩は無知な私に、サプリメントや健康について事細やかに丁寧に、分かりやすく説明して下さいました。
その時まで私は、クエン酸というものはお掃除に使う薬品だとしか思ってなかったものですから。

 

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