透明少女。

膨らんだ桜の蕾が風に揺れていた。春が来たんだ、と思った。

此処はマンホールの上。えがお公園の正門と日和見新聞社に挟まれた車道のど真ん中にある、マンホールの上。あたしは此処に立っている。ずっと。もう何年の月日が経った事だろう。思い出せない。気が付いたら此処にいた。
云ってしまえば、要するに、つまり、よくある地縛霊だ。……あまり認めたくないけど。
また、トラックが大きな音を立てて此の身体を擦り抜けていく。あたしの身体は煙の様に目視出来ない粒子になってぶつかる瞬間に空気に掻き消される。
痛みはない。幽霊だから仕方ない。
毎日車に轢かれるのだから、痛みがないのは(凄く変な言い方だけど)助かる。そういう変な趣味は無いしね。
ただ、あたしは未だに納得が出来ていないのだ。
自分が死んだという事について。
住宅地とは言ってもあたしが立ってる此の道は割と車通りが多い。
複雑に入り組んだ小道から大きな街道へ出る為の一本道だから必然的に他の小道よりも交通量は増える。
ただ、そう割り切っているとしても小一時間に一回位ごうごうと大きな音を立てて身体を掻き飛ばされるのにはやっぱり何回やっても慣れない。
慣れるのが怖い気もする。
だって、恐怖している間は、自分は人間だった気が出来るんだ。
地縛霊と聞くと、此のマンホールの上から一歩たりと動けないだとか、下手に動こうとするとビリリリリッと電流だか何だかが流れてそれを阻止するだとか、そういう事を想像するかもしれない。あたし自身がそうだったように。
でも実際は、動こうとすれば結構何処にでも行ける。どうやらあたしは、「マンホール」というモノに束縛されているようなのだ。マンホールとマンホールの上なら好き勝手移動できる。駅前に行きたいと念じると、駅の駐車場に立ってたりする。どんな地縛霊なんだろう、マンホールおばけって改名しても良い気がする。
それにしても、どうやら最近の幽霊業界は随分フリーダムだ。旅費がかからなくなったから移動許可を冥府に申請して各地を旅をするだとか電車に轢かれたから整形したいだとか……、幽霊にも権利が認められて色々出来るようになてきてる。烏じぃや通りすがりの幽霊達が、良かった悪かったって笑ったり嘆いたりする度に、時代は変わったのねぇって凄く取り敢えずな相槌を打つのが私の仕事って言えば仕事。
正直、私はどうでも良い。肉体が無くなった今も、一番最初に立っていた此のえがお公園前マンホールの上で空の青さや夕立を見上げ、四季を感じる事が出来たらそれでいい。過ぎ去った時間を慈しみ、今ある時間を楽しみ、やがて来る時に想いを寄せる事が出来るだけで私は幸せだ。生前、追われる様にテストやバイトに奔走していた思い出がぼんやりと浮かんでは消える。嗚呼、あの頃、あたしは本当に生を楽しんでいたのだろうか。生きていたのだろうか。
ぶわっと風が吹いた。私の髪を舞い上げる。もう少し伸ばしたかった髪が煽られて頬にかかった。まったく、こういう所は随分生々しく設定せれてるもんだな、幽霊って。物質になると擦り抜けてしまうのに。
「ボールー、取ってーっ」
不意に声を掛けられて、その方向へと顔を上げた。七、八歳くらいの少女が此方に手を振っている。
嗚呼、たまにいるんだ。こういう、所謂「見えちゃう人間」が。
道行く子供ならまだ良い。もう目の前まで迫ったトラックが急ブレーキを掛けてスピードを落とす、運転手は慌てて飛び降り辺りを見渡す。私はずっと目の前にいるのに、見つけられない。今さっき確かに影を見たんだ、黒い人影を、或いは黒いワンピースを着た長髪の若い女を。深刻な間抜け面できょろきょろきょろきょろ、身を屈めて胸に顔を突っ込まれた日は最悪だ。そういえば烏じぃ、最近そういう訴訟が多いって言ってたな。人間に猥褻な行為を働かれたから地獄に落とせって訴える幽霊の。それはそれで、あたしはどうかとも思うけどさ……。
「お姉ちゃああん、ぼおおるーっ」
声を上げながら掛けてくる少女、ボール……アルプスの少女を彷彿させる赤いスカートに白いシャツの典型的オンナノコにはなんかイメージ違いのサッカーボールが彼女の前を転がって向かってくる。
取ってあげたいのは、やまやまなんだけどなぁ。あたしは眉を下げた。
「手を伸ばしても擦り抜けちゃうんですよ」「そうなんですか、トイレの後とか大変じゃないですか?」って会話をしてみたい、いや、したくないけど。
さてどうするか。そんなの決まってる、いつもの手を使うだけ。
私は脚を広げた、多少バランスが悪い位開いて身を屈める。スカートが風に捲られる感覚だけはこの先も絶対慣れないだろうな。
ボールが転がってくる、私は両手を伸ばし身構える。少女が走ってくる。ボールが転がってくる、私の方へ、強い風がボールを押して軌道が僅かに右寄りだ。
スッ、とボールが私を擦り抜けた。触れた指先と右の脛が空気に溶けて一秒、ボールは一方通行の小道をさっくり越えてビルの壁に打つかって跳ね返る。勢いを無くしながら私の二メートル程前方まで逆回転して、歩道と車道の丁度中間位で止まった。
少女が追い付く。息を切らしている、この様子だとどうやら運動少女という訳じゃないみたいだ。
「ありがとう、お姉ちゃん」
身を起こし、いえいえとあたしは首を振る。実際何もしてないんだから、礼を言われる筋合いは無い。
少女がボールを拾い上げ、にこっと歯を見せて笑った。日に焼けたら直ぐ赤くなりそうな白い肌に対して、生活感が滲む程度に黄色掛った前歯が健康な印象を与える。あたしと目が合っても人見知りをする事無く見返してきた辺りに奇妙な大人っぽさを感じた。透明な風が二人の間を通り過ぎる、スカートが煽られても視線を外さない。
「お姉ちゃんは、死んだの?」
それは率直過ぎる疑問だった。真っ直ぐ過ぎてあたしは即座に反応出来なかった。
「お姉ちゃんは、どうやって死んだの?」
彼女の疑問は、若干意味合いを変えて繰り返される。
「あたしの事が、わかるの?」
「だって、其処にいるでしょう」
驚きのあまりに、疑問に答えず疑問を返す。我ながら間抜けだ。相手はおおよそ十も若いというのに。
「あなたは、その、死んだ人間が見えるの?」
戸惑いながら尋ねた。
少女は、貴女は何を聞いてるの?って双眸を窄めて私を見ている。向けられる二つの眼と後頭部に浴びた太陽が熱い、未だ春の午後だというのに。こんな事は、もう……何年居るのかわからないけれど、初めてだった。
「見えるよ」
彼女は言い放った。胸を張り、凛として、とても小学半ば程度には見えない堂々とした雰囲気だった。
「お姉ちゃんの事が、見える。それで、その、丸いの……」
「マンホールの事?」
「そう、マンホールだ。それから黒い糸みたいなのがいっぱい出て、お姉ちゃんの足をぐるぐるにしてるの」
あたしはぎょっとして足元を見た。黒い糸? まさか。
そこにあるのはあたしの、履き古した黒いパンプスと雨風汚れた十円玉みたいなマンホールの蓋だけで少女が口にする黒い糸なんか見当たらない。
「その黒いのは、多分、お姉ちゃんが死んだ証拠なんだよ。んーと、なんか、無くなったら幽霊じゃなくなるんだよ」
この子は頭がおかしいんじゃないか。
真面目に言ってるんだとしたらどうかしてる。いや、あたしの頭なのかな。
「でもね飲み込まれちゃ駄目だよ」
ばいばい、またね。ボールを両手で掴んだ少女は、わかるかわからないかほんの少しだけその手を上げて少しだけ首を傾げる。くるりと身を翻して、走り去った。
待って。喉に詰まって声にならない。言葉の真意が汲み取れない。
あたしは此の時初めて、自分がマンホールという台の上から動けない事を、心底悔しく思った。

「そりゃあ、遺児かもしれんなぁ」
烏じぃは電線の上で羽を休めながらぼんやりと呟いた。
烏じぃは此の界隈で最も長寿な生き字引だ。本人はしばしば、まだ五百年其処らだって笑うけれど、明らかに戦後に生まれて死んだあたしよりはずっと長く生きてる。だって徳川家康が江戸幕府を開いた時にはもう百年生きた後だったんだから。
「イジ、って、遺された子供?」
「そう。血の繋がる人間、例えば母親が良い例か。身篭っている時に、生まれてくる時に親が先立ち遺された人間は、比較的こっち側とチャンネルを繋げやすい様だ」
烏じぃは右の羽を上げて軽く振った。人間だったらこめかみをツンツン指してるのかな。
「別に親が死ななくても、震災や空襲、事故で死を見た子供はその傾向が強い」
カァカァカァ、若い烏が鳴いている。彼らは未だ人語が話せないから、私には何を言ってるのかわからない。ただ公園向かいのアパートの、大学生らしき青年が溜まったゴミを出しているところだった。大方、「良い餌があるぞ、食おうぜ早く、晩飯!」って騒いでる所だろう。カァッ、と烏じぃが吠えた。空気の綺麗な切断面が覗ける様な、透き通っていながら太く厚く、重さを感じる声だ。瞬時に若烏達は鳴きやむ。私はこの、烏を引き連れている、老いた烏の妖怪の青空に似合う声が好きだった。
「じゃあ、その子が言ってた黒い糸っていうのは?」
「黒い糸? そんな事も口にしたのかい」
烏じぃは感心した様に、或いは興味を惹かれた様に電線に捕まったまま羽ばたいた。
「霊の心臓みたいなもんさ。お前さんみたいな地縛霊なら土地と、浮遊霊は両足に絡み付いてる場合が多いんだがな。殆ど身体と一体化してる霧みたいなもんで、冥府の奥から全ての魂へ流れてきてる。生きてる間も微量な。死ぬと量が目に見えて増えて、成仏するとまた減る。見方によっちゃあ、糸が絡まってる風に見えなくもないな」
「ふぅん。あたし、頻繁に此処を通る顔なら結構覚えてるつもりだったんだけどな。見覚えが無い顔だった。何処の子だろう」
「この界隈にもし最近引っ越してきたんなら、二丁目の佐々木か、四丁目の井上ん家の娘だろうな。七つか八つ位の娘だろう、三丁目の野ノ原ん所は高校生なるってんし、五丁目の工藤の家からはガキの足じゃあ遠いさ」
「今度見かけたら、声を掛けてみる」
私は見上げて疲れた気がする首に手を遣り軽く回した。眠らなくても死なないし、実際痛くもないのだけれど、私は夜は目を閉じて時々身体を動かす様にしている。
烏じぃはケタケタと笑って、仲良くなったら紹介してくれと鳴いた。
あたしは、気が向いたら、と答える。
夕刻過ぎた太陽がマンションの陰に沈んでいって、夜がやってくる。
ジャージ姿の男子高生が公園を走り抜けていく。

「やっと来た」
アルプスの少女姿の女の子が一人、サッカーボールを追いかけて公園を駆けている。
烏じぃと話してから、三日が経った平日の正午過ぎ。
あたしは遠くから、相変わらずマンホールの上に立ち彼女を眺める。肩程までの黒い髪、前髪は瞼の上辺りで自然に切り揃えてある。白いブラウス、赤い無地のスカート、茶色い革靴にクリーム色の靴下。サッカーボールを追いかけている以外は多少オンナノコ過ぎる気もする格好だ。
目が合って、少女はにこりと緩い微笑を向けた。やはり、あたしの事が見えるらしい。
ゆっくりと右手を上げて、ちょいちょいと手招いた。彼女は一瞬怪訝そうに笑みを引っ込め、サッカーボールを抱き止めて此方をじっと見た。気持ちがわかる気がするから、あたしは少しだけ首を傾げてみた。
誰だって、幽霊とわかるモノに手招かれたら嫌さ。連れて逝かれると思うだろう。
しかし、「殺さないからちょっと話さない?」って声を掛けれるはずもない。あたしに多少ナンパの才能があったらなぁ、って不謹慎にも思ってしまった。
「ちょっと、いいかな」
恐る恐る、聞こえるか聞こえないかの声で話しかけた。離れた距離は五十メートル位か。
少し困った顔をされた気がした。単に不思議げだったのかな。ボールを抱いてとことこ駆け寄ってくる。
「どうかしたの?」
「ええと」
随分大人びた子だ。全く人見知りをしている素振りが無いし、口調も小さな身体にそぐわない位しっかりしている。約二メートル、親しくない人間同士が話す時、不愉快にならない距離で立ち止まり、私を見上げた。大学を出て二十二になっても相変わらず一人称が「あたし」な自分が幼く見えてしまう。嗚呼、その後死んで何年か経つから、実際はもっと老いているのかもしれない。烏じぃが若烏と一見見分けがつかない様に。
「貴女が、あたしの事を見えるみたいだから、教えてほしいと思ったの。貴女は何者なのかとか、あたしは何なのかとか、それから、ええと……」
「わたしは、佐々木みやこ。二場小の、三年生です」
「あたしは……四ッ谷詩乃」
嗚呼、誰かに名を名乗るのは何年ぶりだろう。あたしは一瞬躊躇してから、古い名称の埃を払った。
「しの、お姉ちゃん」
みやこは呟いた。佐々木……恐らく烏じぃが教えてくれた「二丁目の佐々木」の娘だろうな。
何から切り出したものだろうか。あたしは少女の顔を見下ろして数秒黙り込む。少しだけ彼女の表情に影が差した気がした。
空気をまずくしてはいけない。慌ててあたしは誘った。
「ねぇ、少し遠いけど、森の小道の中のベンチで座って話さない? 立ってるのも疲れるでしょう」
「え……だけど、お姉ちゃん動けるの?」
みやこは一瞬目を丸くして驚いて見上げてくる。あたしは彼女が、何か知ってるという確信を一層強める。
だって地縛霊だって事は話していない。たまたま同じ場所に突っ立ってる浮遊霊かもしれないじゃないか。
浮遊霊と地縛霊の違いは、束縛される媒体が有るか無いか、だ。ちなみに媒体が動物だった場合は守護霊とか憑依霊という。生前の出来事……思い出とか愛情とか怨念や後悔によって縛られるべきものに気付いたら霊は縛られている。でもこれらは忘れている場合が多くて、あたしもそのパターンに当てはまる。原因もきっかけもわからないが、惹かれたものがマンホールだったっていうのも切ない話だと我ながら思う。恐らくトラックにでもすっ飛ばされて、このマンホールに突っ伏して死んだとかそんなオチだろう。
最初、あたしに霊の種類を教えたのは烏じぃだ。その後自分で考えて、適当な死因を作った。小学三年生の子供が、齢五百を越える烏の物の怪と同等の知識を持っている。あたしはそれに大いに刺激された。
「あたし、動こうとしたら動けるの。ほら」
あたしは瞼を伏せる。一瞬、水に飲まれた浮遊感、左右からの圧力、息が詰まるのを感じる。黒い光が喉の奥から鼻の奥、目へと込み上げる。ぐらついた頭、久しぶりの移動でふらりとした。一番近いマンホールがいつもの場所から市街地側八十メートル程向こうにある。坂の無い直線だから直ぐにわかる。
彼女は予想でもしていたのだろうか。此処よ、というよりも早くあたしの姿を捉えていた。小さく頷いた気がした。
あたしは再び目を伏せる。次の瞬間、目の前には小さな少女が居た。帰ってきたのだ。彼女は終始理解しているようで、驚く訳でも無い。ただあたしの言葉を待っているのだ。
「マンホールの上に限られるんだけど。森の小道に、マンホールの上にベンチを置いてる場所があるから、其処で話さない? 其処なら、ほら、木が多いから貴女が変な眼で見られる事もない」
ね、と首を傾げた。みやこが頷き踵を返す。十メートル程歩いてから振り向いた。
「しのお姉ちゃん?」
いつまで経っても着いてこないあたしを不思議に思ったのか、語尾が上あがり。
それからあたしの足元に視線を遣って、ああ、って一人で納得したらボールを抱いてぱたぱたと小走りに森の小道へ向かっていった。
あたしは小さく噴出して空を仰ぐ。百を数えたら自分も待ち合わせ場所に向かおう。一秒とかからない。嗚呼、今日はそれにしてもよく晴れている。烏たちは今、どうしているだろうか。

森の小道はえがお公園の西門と東門を繋ぐ四本の道のうちの一つだ。一番細長い道は、朝と夕方に犬の散歩やロードワークに励む人間が数人通るばかりで日中はしんとしている。高く繁った木々が太陽を遮断して、青い匂いが鼻を付くようだ。
この道を進んでいくと、だいたい真ん中あたりにベンチはある。昼間しか光が当たらない其の場所は地面に近づく程、青い苔が付着している。
あたしとみやこは其処に身を寄せ合って話をした。勿論、あたしは座ったふりなんだけど。
みやこは文字通り「大人しい」という形容詞が似合う子供だった。逢ったのは今日でまだ二回目なのだけど、妙に他人の気がしない、寛容的な柔らかさを持っている。言葉にも機知が滲んでいるから、きっと学校でも成績優秀って感じなんだろうな。
「それで、しのお姉ちゃんは、生きてる時もそんな感じだったの?」
「うん。まぁ、なんていうのかなぁ。優しさ半分と惰性で生きてる感じ。みやこちゃんは、こんな大人にならない方がいいよ」
「へぇ。みやこのママが頭痛い時に飲むお薬も、優しさが半分なんだよ。あんまり効かないっていつも言ってるよ」
ものの十五分もあれば、みやこはあたしの幽霊人生をすっかり他人に語れる程になっていた。それくらい、あたし自身が自分について把握している事は少ないのだ。
彼女は遠く正面の木々へと視線を移す。あたしはその大人びた横顔に、ドキリとした。
「しのお姉ちゃんもママも薬も、もっと優しさ減らして、その分長生きしたら良かったのに」
ぼそっと呟いたみやこは再びあたしの方を向いて、にへっと子供くさい笑顔を見せた。子供に対して「子供くさい」というものどうかと思うけど。
「あのね。みやこのママは、二番目のママなんだよ。わたしを生んだママは、みやこが五歳の時に死んじゃったの。でもね、本当のママも今のママも大好きだから、大丈夫なんだよ」
あたしは返す言葉に躊躇した。辛うじて「そっか」の一言を絞り出して、彼女から逃げる様に視線を逸らす。あたしは、彼女の様に気丈にいれたのだろうか。或いは、境遇を受け入れる強さがあっただろうか。
正直、親と仲が良かった覚えはない。普通、ではあったと思う。ただ生前、進路について大喧嘩した時や希望の大学を受験させて貰えなかった事、そして看護師の道を諦めざるを得なかった事をあたしは未だに根に持っているのだ。大学を卒業してアパレル会社の営業として就職した時には、それなりに喜んでは貰えたけれど、勘当されたら楽だったのだろうかなんて考えていた自分に嫌気が差していた事も事実だった。みやこの様に、嘘でも本当でも「ママとは仲良し」だって言えたら、あたしの人生は変わっていたのかな。喉の辺りが詰まっている。何かが喉を込み上げてきて少し気持ちが悪くなった。
それにしても、成る程。烏じぃの話は当たっていたらしい。
幼少の頃、みやこは母親を亡くした。それが恐らく、彼女に彼岸を覗く目を与えたのだ。どの様に失ったのかは、聞いてはいけない気がしてあたしは何も言わなかった。言えなかったし、聞けなかった。昨日まで其処に居たはずの存在が忽然と消えてなくなる事。在って当然という思い込みが、ほんの僅かな時間を境に当然では無くなる事。生物に生まれた以上、必ず付き纏う死が何故だか妙に恐ろしく感じられた。どす黒い何かに喉を押し潰されていく不安。底の見えない深い深い、思考の渦に飲みこまれそうであたしは顔を上げた。目の前に茶色い瞳があった。あたしは息を飲む。
「……大丈夫?」
抑揚の無い声が問いかける。遠くでスズメが鳴いている。汗なんて出なくなったはずの身体なのに、やけに背筋がそら寒い気がする。あはは、とあたしは乾いた声で笑った。声が湿気を失くしていく。おかしいな、泣いてないのに顔が乾いて。
「急にぼーっとしたら、怖い顔で下を見てたから」
みやこはあたしの足元に視線を落とした。
そして一寸言葉に詰まる。彼女には見えているのだ、あたしを絡めているらしい黒い糸を形作る霧が。
「そしたらね、色が濃くなったの」
「え?」
「しのおねえちゃんの足に絡まってる糸のね、色が濃くなったの」
「濃くなるとどうなるの?」
少し焦って端的な口調になるみやこを宥める様に、少しだけ緩慢な物言いで先を促す。
みやこはすう、と息を吸い込んだ。少しでも自制を意識したんだろうな。
「怒ったり泣いたりするとと、色が濃くなるの」
言われた言語は理解した。興奮したり深刻になると色が濃くなって見えるんだろう。確かにまぁ、昔から悩み込むと坩堝に入って延々考え込む悪癖があるし、今も少しその気が出ちゃったかもしれないけれど、それって良くない事なの?
みやこはこくん、と顎を引いて茶色の瞳に真剣さを滲ませて口を開く。初めて机に座ったおませさんみたいにちょこんと膝に置いた両手を宙に上げた。特に何をする訳でもなく、胸の辺りで緩く握る。
「なんかこう、思い? そういうのが強くなると、糸がもっと黒くなって太くなって、引きずり込まれちゃうんだよ。ぷっつん、って切れたら、それは成仏っていうの。それは良い事なんだけどね、未練とかが無くなってさっぱりするんだけど。でも一回引きずり込まれたら、もう成仏とか出来なくなって、悪霊って言われるんだよ。悪霊になったら、消滅するしかないの」
早口で一気にまくし立てた後に、ふぅと嘆息を零して目を伏せた。そしてあたしを見つめて「私は嫌だよ」と、言った。彼女の足元でサッカーボールがぽつんと日陰に沈んでる。
大人を怖がらせたら駄目よ、って返したかったけれど、見つめてくる二つの眼があまりに真摯で不安に潤んでいたからあたしは何も言えなかった。
「私は、嫌」
みやこはもう一度繰り返す。せっかく友達になったんだもの、と。
スズメが鳴いている声が遠ざかる。烏が一声、カァと鳴いた。一陣の風が通り過ぎる。
あの日、みやこと話をしてから一週間が過ぎた。あたしはろくに眠っていない。眠れなくなってしまった。
最初の二、三日なら人間じゃないんだから、と一笑したものだが此処数日は烏達もあたしの前じゃ遠慮して鳴きもしない。
「お前は、深刻に考え過ぎなんだって」
烏じぃは心底困った顔で言う。その原因は何だと聞かれたらあたし自身しかない訳だから、あたしは頷くしかない。頷いて何かが解決したら、素晴らしい事だと思うけれど。
「だけどね、あたし、何年此処に立ってきたかわからないけど、みやこみたいに説明してもらった事、全く無いんだよ。烏じぃだってそう。あたしはいつまで此処に立ってたらいいのって、最近いつも考える。あたしだって好きでマンホールの上にいる訳じゃないんだし」
烏じぃは何も言わない。あたしの批難をただ黙ってコンクリートの塀の上で受け止めている。黒い眼が心痛に揺れていた。烏じぃに当たっても何も変わらないなんて知っている、頭でわかっているのに抑えられない欲の感覚は凄く懐かしいものだった。生きていた時は事ある度に不満をぶつけては対立したものだ。不安と不満と同情と無力が混ざった居た堪れない目で、皆、黙っていた。母も、父も、次いで浮かんできたのは優しげな眼をした二十後半のスーツを着た男性。思い出せないが彼氏か誰かだろうか。だが直ぐに消えてしまう。
「もしかしたら、成仏出来たらまた生まれ変われるかもって、そしたらみやことちゃんとした友達になれんじゃないかって、欲が出るの。そりゃあ、此処で、季節が変わって、お日様が沈んでお月様が上がって人が入れ替わって動物が生まれて死んでくの見る生活も悪くないよ。だけどあたしは元々人間だったんだ。朝に起きて夜に眠って仕事行って時々笑って疲れて帰って夜に眠る生活をしてたんだ。もう一度戻りたいって、思ったって、別にいいじゃない」
腰が抜けた様にあたしは膝を付いた。マンホールが近付く。雨風に晒された其れの上にはあたしの膝が乗っている。幽霊なんだからもともと影なんか出来ない。だが今日はそんな身体が無性に悔しくて、曇りがちの空から差す光が弱すぎる所為だと太陽を睨む。
マンホールなんかが存在しなければ、不条理な力によって縛られる事も無かったんだ。握り締めた右手を高く掲げて思い切り振り下ろす。音も痛みも無く手首までが綺麗に透け沈み、拍子が抜ければ直後に真っ黒な不安が襲ってくる。我武者羅に手を翳し振り下ろす度に、もう人間ではないのですよ、と言われている気がする。それから逃れたくて手を掲げて、何度も何度も空を切る。
烏じぃが車道に下りてきて目の前に立った。あたしを止めようと思ったのかもしれない。ばっと大きく翼を広げた、が、其処であたしの身体には触れない事に気付いたんだろう。ゆっくりと俯き加減で翼を閉じ、背後の公園に自動車が侵入しない様に設けられたカラフルなパイプの上へあたしを見据えたまま飛んだ。
あたしは大きく息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出す。涙は出なかったけれど、手の甲で目元をぐいと擦る。瞼の裏で、母と友達と別れた彼氏とスーツ姿の男性と、烏じぃと先輩とそしてみやこの困惑した顔がゆっくりと移り変わって混ざり溶けていく。
ダンプカーが大きな音を立てて排気ガスをまき散らし、通り過ぎて行った。
身体は音も無く空気に溶けて、またあたしの身体を形作る。もう瞬きをするよりも無意識的な反応だった。
いつもチワワを散歩させている野ノ原夫人がえがお公園の入り口から、微かに残る黒い煙を分厚い老眼鏡の奥の瞳を心底不愉快げに歪めていた。
そして、何年月日が流れたのだろう。みやこは高校生になった。毎朝約七時半過ぎにえがお公園を通り抜けていく。
思い悩んだ末、結局あたしは逃げた。彼女から、現実から、公園前のマンホールの上から。
今は日和見新聞社ビル三階屋上の貯水タンク脇マンホールの上にいる。そしてゆっくりと長い長い時間を掛けて、自分の知っている事を自分で整理していこうと決めた。
「本当にそれでいいのか」と、烏じぃは聞く。あたしは眉尻を下げて笑った。それしか出来なかった。
みやこが与える情報は、無意識のうちにあたしの中を掻き乱すだけ掻き乱して去っていく。まるで台風みたいに。
台風が其処にきています、とニュースキャスターが伝えても殆どそんな実感は湧かない。家の中から出なければある程度の安全が保障されている事を知っているから。だから決まって、ホントウカナと窓から顔を出した瞬間に飛んできた看板やらトタン屋根の一部やらにぶち当たって大怪我をする。そして漸く、嗚呼危険なんだ、と理解する。
あたしにとってみやこは台風であり、マンホールは家なのだ。顔を出してはいけなかったのだ。興味を持ってはいけなかったのだ。大怪我をする代わりに、抱える疑問が増えて、自分自身を纏められなくなってしまった。
みやこに何も告げずに移動した罪悪感と自業自得の蟠りや疑問や悩み、それらをゆっくりと一つずつ、絡まった糸をほどく様に扱いながら日々過ごしている。
様々な可能性を空想するという事が、最近楽しくなってきた。
例えば、あたしはえがお公園マンホールの上で死んだのだ、だから其処に居た。もしかしたら謎のスーツ姿の男性は実は将来の結婚相手である。実は死んだ時に時間の捻れが生じていて今の姿と記憶は実際の死亡年齢よりずっと若い時代のモノで、本当はもっとおばさんになってから死んでいて、しかもなんとみやこのお母さんだった。……とか、そんな根拠も何も無い空想。
でも少し、ホントにあたしがみやこのお母さんだったら、ってはホントにホントに少しだけ思う。ほぼ毎日、遠くから彼女を眺める時の温かくて愛おしくて申し訳無くて歯痒い気持ちは、きっと其処から来るのだろうと最近は考えている。
答えが出た所で、結局何も変わらない。生き返る事も無い。却ってみやこを、そして誰よりあたし自身を混乱させてしまうだけなのだと割り切る。
烏じぃは「お前がそれでいいなら」とだけ云ってくれた。何百年も生きた本人、否、本烏がそういう態度が一番の優しさだという事に気付いていないのがまた可笑しくて嬉しい。
みやこは今日も学校に行く。白いセーラー服はいつ見ても眩しい。烏じぃは若烏達を引き連れてゴミ回収車が来る前に少しでも多く美味い飯をと飛びまわってる。そうこうしているうちに日は高く上り、あたしを照らす。あたしの下に影は出来ない。代わりに黒いもやもや(結局こう呼ぶことにした。)が溜まってる。昼になると新入社員の山本さんが一服しに屋上へ来る。流れてくる煙を、手で軽く払うそぶりをするのがあたしは好きだ。煙草臭さが残っても煙は決して乱れはしない。
日が傾く。山本さんが仕事に戻る。野ノ原夫人がチワワを連れて、散歩兼井戸端会議兼ダイエットを公園内で勤しむ。烏じぃが夕方辺りにふらりとやってくる。あたしは歌を歌う。烏じぃがカァと鳴く。
いつの間にか公園の、柏の緑がくすんできていた。マツボックリも少しずつ、開き始めてきている。
嗚呼、秋が近付いているのかもしれない。
台風の季節だ。
痛い目を見たあたしはきっと、前よりずっと慎重になった。
悩み事も増えた。楽しみも増えた。後悔もある。
だからなんだか、前よりずっと「生きている」って気がしてる。

 

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