暫定少女。

夕刻、豆腐屋さんが鳴らすラッパが遠く遠くに聞こえました。
重い瞼を開けると、大分角度を失くした夕日がベランダ越しに差し込んでいました。陽の橙と影の灰色とが、ただひらべったい壁に広がっています。此れは何色なのかと聞かれても、即答出来る人間は稀でしょう。ただ無性にカフェラテを恋しくさせる色だとだけ申し上げます。遠くまで澄み渡った夕日の滲む空が私の不安を煽ります。
大学生諸君の薄っぺらい懐をほくほくと冷ます一方で、単位と就活で凍えた身体をぬくぬくと温めてくれる「路地裏喫茶ラテ」が無性に恋しくなる季節になりました。「路地裏喫茶ラテ」、嗚呼、なんと飾らない響きか。不思議な事ですが何気ない事でも思い出せば無性に飲みたくなるものです。
しかしながら、私は其れを拝む事も出来ない哀れな引きこもりの身です。休学と復学と留年と入院を繰り返しながら、トイレにへばりついたヤモリの如く、或いはそのヤモリの足裏の吸盤の如く大学生の底辺をはえずり生きるのです。親の脛のみならず両脚丸々まで蝕み、憑かれたら二度と離さんぞという粘り強さに関しては、ヤモリよりもスッポンの方が適しているのかもしれません。しかしながら、残念な事に、私はスッポンを見た事がないのです。もしも外に出る機会があれば水族館へ行ってみたいです。もしもの話ですが。
ごろーんと寝返りを打つと毛布がうねり、ベッドから落ちそうになります。四畳半の下宿生が多い我が大学で、なんと六畳フローリング・ユニットバス台所付きの部屋なのですから、今引きこもりライフを満喫せずして況や今後をや。ごろろーんめしょっ。落ちました。痛い。
友人は少ないのですが数少ない知人が時折やってきます。
例えば今も一人、部屋の隅に座っている、いいえ、「埋っている」という方が適切だろう女性が世永芽衣。彼女はいつも唐突に訪れて、私と挨拶を交わす事も無く、そのボンレスハムを彷彿させる肉体を部屋の角へぎゅむむむっと押し込み、決して着こなす事は叶わぬであろう女性ファッション誌へ些か陥没気味の双眸を阿修羅の如く走らせるのを生業としております。秋冬は床が冷えて寒いだろうと、立ちあがった私は綿毛布を一枚差し出しました。私の体温がほんのり残る生温かい毛布さん。
すると彼女は毅然とした態度で
「私には冬を越す準備を要するのですよ、先輩」
と、首を振り
「先日の一人神経衰弱で負けた分を払って下さい」
毛布の代わりに百円マックのアップルパイ百箱を要求されました。
一人神経衰弱とは文字通り、一人で神経衰弱を行い、あがった速さを競うという菊村君が考え出したゲームです。神経を衰弱させた敗者にはたいてい物品が伴う罰ゲームが用意されており、そしてゲームを開発した菊村君が現在現在三十戦二十三負、うち五敗不戦負という素晴らしい自己ベストを更新しつつありました。
私は引きこもりですから、ちょっと其処のコンビニまで、なんて生温い事は出来ません。引きこもりとは引きこもる事に全身全霊を掛けて挑まねばならぬのです。「自分は引きこもりだから」と居酒屋で豪語し、チューハイを煽り過ぎて駅のホームに吐瀉物を撒き散らす下賤な人間であってはならぬのです。
「引きこもりの美学に反します。私は徹頭徹尾、断固として部屋に引きこもらなくてはなりません。それは、関東大震災が起ころうが然り」
世永芽衣は細い双眸を一層細めて紐の如くし、私を見返しました。そして再びファッション雑誌へ顔を向け、
「じゃあ、菊村先輩に頼んで下さい」
「世永さんに百円マックのアップルパイを百箱」
「ハーゲンダッツのストロベリーも」
「そして、私にグラタンコロッケバーガーを」
私は頷きました。ものはついでというものです。
菊村君は私の同期であり、たしか今年、法科大学院修士課程を卒業したと耳にしました。半年近く前に、何処かの興信所だか事務所だかに就職が決まったと歓び勇んで報告に来た事がありましたが、我ながら見事に忘れてしまいました。嗚呼、彼と共に路地裏喫茶ラテを嗜み、健全な男女の行う一般的な行動をこなした事が懐かしい。しかし一つだけ念を押しておくならば、健全な男女が夜半一つの寝床で行う遊戯というものは一切合切なかったとだけ言っておきましょう。
「髪が大分伸びました。好い加減お風呂に入らねば」
誰に云うでもなく私は呟き、再びベッドに潜りました。もふん。ふかふかの毛布は世永さんの来訪と共に開け放たれてましたから、ほのかにお日様の香りがします。んもっふんもっふ。
「んもっふんもっふ。んもっふんもっふっふふふふ」
毛布に包まれていると温かく幸せな気分になります。此れが正真正銘の胎児回帰なるものか。
ぴろろろろー、と携帯がなりました。私達はほぼ同時に顔をあげ、世永さんが己の携帯を取りました。
「菊村先輩からですね」
カチカチと携帯電話を操作しながら、世永さんは呟きました。
「小泉先輩が、アップルパイを百個、グラコロを四個でいいですか」
「何故私に返事の内容を問うのです。グラコロは一つで結構です」
「私が三個戴きますよ。そして彼は貴女の恋人であり、私の先輩であり、前回の一人神経衰弱大会の欠席者であり、我々の使いっぱしりであるのですから」
私は枕に顔を埋めて「成る程」とだけ云いました。そしてベッド脇の「山積み文庫」なる書籍の山からカミュの『未亡人』を選びました。しかしながら夕日は殆ど色を失くして、表紙の大文字すら見難い宵闇が迫ってきています。烏の鳴き声に混じって、下校途中の小学生らしき高らかな笑い声が聞こえていました。思えば私にも、その様な時期があったのでしょう。
「世永さん、電気を付けて戴けますか」
「返信に忙しいのです、先輩がどうぞ」
私は小さな溜息を零しました。彼女が其処で「身体が埋ってぬけないのです」と言い訳したなら、嬉々と笑って蛍光灯の紐を引く為立ちあがったでしょう。
「ああ、シャンプーも頼んでおいて下さい。メーカーは何処でも気にしないから、コンディショナーとシャンプーを一組」
世永さんが顔を上げ、怪訝そうな口調で呟きました。
「ええー……、生理用品や生活消耗品を彼氏に買いに行かせる人って、結構女として終わってるらしいですよ。干物女ですよ。化石女ですよ」
「干物でも化石でも結構です。情報ソースは何処ですか」
「それは此の雑誌の特集で」
唇をにゅんと尖らせた彼女は、埋ったままその太く短い指の先で、ちょんちょんと紙面を叩きました。
ベッドから起き上がった私は、それを一瞥して、蛍光灯の紐を引きました。
明るい光が瞬時に部屋を照らし、振り返った先の窓には出来上がったばかりの暗い暗い夜が映し出されていました。昼にちゅんちゅんと囁き合っていた雀たちは何処へ消えたのでしょう。午後のまどろみの中で聞いた子犬の声は何処の子でしょう。遺されたのはお日様の香りがする毛布だけ、それも徐々に薄れていくのです。
ややあって彼女は携帯を閉じ、雑誌に視線を戻して呟きました。
「……菊村先輩の事、大事にしてあげたらいいですよ」
「おや、それは何故です」
「貴女みたいな人間には勿体無い」
「そうですね。彼が来なくなったら私は死んでしまいます」
「全く以てその通りです」
灰色のカーテンを閉めた際、野良猫の声を聞きました。
遠くないうちに菊村君が、美味しい香りを携えてふらりふらりとやってくる、そんな気がしました。
嗚呼、温かい路地裏喫茶ラテが恋しくなる季節です。

 

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