クリオネと夢。

僕がその抽象画に出逢ったのは、興味本位で見に行った大学の学園祭だった。
展示している作品の中で一際目立つ壁一面を占める程のキャンバスには真っ青な絵の具が混沌としていて中央の下側にほんの少しだけ白が佇んでいる抽象画。始めはその大きさに圧倒され、そうしているうちにその滾々とした湧水の様な青色が脳味噌の中に流れ込んでくる。仄暗さの中に混じる鮮明は生き生きと、筆の捌きは静かでありながら迷わない。それは何千何万年もの間、移りゆく波をただ其処で仰ぎ見続けた水底を息苦しい程に彷彿させた。
次の瞬間、飲み込まれそうな静寂が僕を襲った。学園祭の喧騒が酷く酷く酷く遠く感じる。この場を流れる時間の脈動がやけにゆっくり聞こえてくる。どくん、どくん、と低く低く。その音は明らかに足元へとにじり寄ってきていて、僕はその場から動けなくなった。
此れ程の印象を与える絵は、美術館でもそうそう見ない。
ましてや美大でもない大学の小さな美術系サークルの展示でなんて想像もしなかった。
孤独であり、絶望。希望があり、諦観。誰が見ても明らかな内向的自意識を、どうか見てくれと云わんばかりに全面へと押し出してその絵は何かを叫び続けていた。
はっと我に返ると、傍らには女性が立っていた。白を基調とした清楚な服に染められていない黒髪が、何故か妙に暗い印象を与える。絵を見上げていた横顔がそっと傾き、引き寄せられる様に視線が出逢った。
「どうもありがとうございます」
落ち着いた声で彼女は云った。微笑んでいるその顔も、何と無く寂しげな色をしている。
「随分熱心に見て下さって。うちのサークル、仕方ないですけど地味だから」
僕は小さく会釈をして、そんな事はないと云った。とてもすごい絵が置いてあると。
「ありがとうございます」
彼女はもう一度礼を云った。先程より少し笑みの色が増して、小さなえくぼが白い頬に出来た。
「それでも、これは抽象画ですから評価自体はあまり高くありません。まぁ別に、そういった物なんて全く意識しないで描いた作品ですから構わないんですが」
その口振りに、貴女が描いたのかと問うと照れ臭そうに彼女は肯首した。我が子を見上げる愛おしげな視線が、小柄な背丈よりもはるかに大きな絵画へと向けられる。僕も再び絵を見上げ感じたままに感想を述べた。彼女は黙ってそれを聞き、そして柔らかい口調で語り出した。
「私は、抽象画ばかり描くんです。元は写実的な作品でしたが、有らぬ深読みや批評がもう嫌で嫌で嫌で仕方がなくて。それなら最初から、深意など決して読み切れないものを、無限の解釈が可能な作品を、答えや計算の無い世界をと行き着いた先がこの子です。思うがままに、自分が有るがままに、他人を意識しないで描く事ってとてもとても楽しいんですよ。多くの人は作品の出来栄えばかり追い求めるけど、私も昔はそうだったけれど」
地と図が混沌とした構図。絵具の厚みがはっきりと分かる程、繰り返し重ね塗られた色と色が無意識と故意の中間でか細い糸で繋がり合っている。最初に強烈な印象を与えた青い色も決して単色では無い。レンブラントを思わせる陰影が描かれては消され、言語と記号の幾何学も描かれてはまた消されたのだろう。
「解釈が自由である以前に表現はもっと自由です。決めつける事なんて決して出来ない。無限の表現は無限の解釈を生み、その解釈とはつまり、その人自身の事。気が付いたらそれは当たり前でした。クリオネが殻を脱ぎ捨てる様に、自分自身を進化させて、世界という空気を描けたら素敵だろうな」
彼女はちらりと僕を見た。
言葉の真意は何処に有るのか。
それを問う間も無く「では」と云い、彼女は何処かへ去ってしまう。

 

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