夢と幻

こんな夢を見た。
青白い顔をした少女は無愛想に、「死んだね」と云った。
僕は「ああ、死んでしまった」と答えた。
ぽちたまいう名前で、つい数分前迄生きていたそれは僕の腕の中でもうぴくりとも動きはしない。一秒毎に確実に遺された温度を蝕まれていく。
突如、僕の中に喪失が噴き出した。
消える。去る。失う。いなくなるという事。
絶える。逝く。終る。死んでしまったという事。
嗚呼、もう、僕は、ぽちたまに逢えない。
冷えていく塊を腕の中に抱いて、僕は慟哭した。崩れ落ちた膝を、湿った土が受け止めた。
暗雲は辺りの彩度を落とす。
塊から広がる澱んだ色の腐臭は、それを中心に辺りに立ち込めていく。
ああもう、僕も死ぬのだ、と、思った。
「言い残した事は?」
少女の声がりん、と響いた。遠くで鈴が鳴った気がした。
僕は少女を見上げた。
相変わらず無愛想である。何処か不満げな瞳が鬱陶しそうに僕を見る。
彼女の長い白髪がこの世で唯一生きているものである。そんな気がふとした。
塊から湧き上がる腐臭は色と形を纏いて、周辺の草木すら飲み込んでいく。色彩が失われた時に残る色は無色透明ではないのだと僕はこの時初めて気付く。
「言い残した事は」
もう一度、同じ言葉を少女は云った。
「あるならば、待ちなさい」
僕は尋ねた。どれだけ待てばいいのかと。
「云える時まで待ちなさい」
彼女の声は見た目よりずっと大人びて判然としていた。
「百年でも、二百年でも、或いは明日までか、いいえ、もうすぐかもしれない」
鶴が翼を広げるが如く、彼女は両腕を広げて重い空を仰ぐ。
その声はただ唯一澄んで、透明な形で僕の脳味噌へと染み込んでいく。
そして僕は、彼女がこの世のものではないと、ふと気付いてしまった。
どこからきたのかと問う。
「ずっと此処にいたわ」
いつまでいるのかと問う。
「答えが出るまでいるわ」
君は何だと問うと、不機嫌な顔が少しばかり揺らいだ。くすりと薄い笑みが、一瞬ほんの一瞬だけ見えた。何故かその人を馬鹿にしたような表情を、僕は既に知っている気がする。広がった両腕が今度は胸で組まれた。
「私は、今日でも明日でもない。ましてや昨日ですらない。それは何故か」
わからない、と僕は云った。黒々とした大気が僕に纏わりついて生命という活力を奪いつつあるというのに。何故僕が、他人の事など知るものか。
少女は再び不機嫌そうに唇を結んだ。先程よりきつく、真っ直ぐに結んだ。
「ならば去るがいい。或いはそれが分かる迄、気が遠くなる程時を過ごせ」
彼女の言葉は鐘の如く、僕の中で反響する。
ああ、僕はこれから先の見えない、原因も結果も分からない何かに、向かいつつあるのだ。
「此岸にも、彼岸にも、私は存在しない。いいえ、正しくは、出来ない」
永遠を知れ。少女は低い声で呟いた。
そして霞の様に消えてしまった。
ぽちたまだった塊は、もう完全に冷え切っていた。
それから、僕はそこにいた。
地面に膝を着いたまま、塊を抱えたまま、何年も何年も経った。
冷え切った塊を見つめたまま、僕は石のようにそこにいた。
暗雲の向こう側では幾度、月と太陽が交錯したのか。
何を見ていたのかは、定かではない。
虚ろに滲んでいた視点が、或る時ふと、塊に合わされていく気がした。
黒々とした塊。四肢に尻尾、重力に全てを委ねて項垂れている。
ぽちたま。
僕は、その名を呼んだ。
塊がぽちたまとして、動き回り、寝転がり、鳴いて時々じゃれついてきた事。
ぽつん、ぽつん、と音がして、その度にぽつんとぽちたまを思い出す。
ぽちたま。
「おやすみ、大好きだった」
そこで初めて声が出た。
すると目の前に少女がいた。
白髪が揺れて、あの、人を小馬鹿にした様な、気まぐれ過ぎる笑みで答えた。
「わたしも」
そこで目が覚める。

 

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