ココアとサツマイモのケーキ

カウンターから見えるマスターの手が、慣れた手つきでココアを作る。
粉にミルクを混ぜながら、少しずつ、少しずつ伸ばして液体にしていく。
蒸気にほんの僅かに甘い香りが混じり始める。
「今日は何のケーキがお勧めです?」
マスターは人のよさそうな笑みを浮かべながら軽く唸って、小腹が空いていると言う私にサツマイモのケーキを勧めてくれた。
私はカウンターで、時折話し相手を求めて他愛の無い話題を振りながらキーボードをたたき続ける。マスターはそんな私のつまらない話題にも、丁寧に返事を返してくれた。
時間の流れが穏やかな場所で、どうして私はこうしてわざわざミニノートパソコンを持ち込んでまで仕事をするのだろうか。
街中に実はこっそりと存在するたくさんの「マスター」それぞれが、自分の趣味趣向を凝らした独自空間。カフェ。俗世から開放された、苦さと甘さを両方備えているそこに、それこそ私は「逃げ込む」のだ。
ジャズなのか「80年代」か、なのも分からないような音楽の流れる空間。時にはマスターとの二人きりになる事も少なくない。人間嫌いが何故、と思われるかもしれないが、それこそ先ほど申し上げたとおり「逃げ込む」からなのである。
オフィスから、自宅から、自身を誘惑或いは困惑させる何かを孕んだ全てから逃げ出そうとして、私たちはカフェに行く。
インターネットを通して、或いは口コミを聞いて、私たちはカフェの存在を知る。其処から足を向けるという階段を上って、さらにドアを叩くという階段に上がる。
そして拓けた場所の空気が、肌に馴染むかどうかは、別の問題だ。
肌に合わなければ二度と行かなければいいだけの話であって、私たちにはそれを選ぶ事が出来る。
肌に合うから、「逃げ込む」。
一日の疲れを癒す様に、一週間の疲労から解放されたがるかの如く。
マスターがソーサーの準備を始めた。
マグを温める為に入れていたお湯を流し台に捨てて水滴を振り切る。以前、珈琲を注文した際もティーカップを慣れた動作で思い切り振っていたな……などとぼんやりと思う。
そうしている間に、柔らかいホイップに飾られたホットココアが前に出された。
キメの細かいピンとした泡は、時間が立っても萎えたりせずに、猫舌の私を待ってくれている。
追って出されたサツマイモのケーキも、しっかりと重みのあるパイ生地と、それに負けない重量感のあるサツマイモの存在感が私のお腹を満たしてくれた。
緩やかな怠惰が私の斜め後ろに立っている。
それ、彼、いや、彼女なのか、その存在は言う。
「忘れなさいな、今は、忘れなさいな」
私はケーキを突きながら、心の中で首を振った。
いいの、このケーキを食べきったら、このココアを飲みきったら、元の私に戻るんだから。お店を出るでしょう、駅に向かうでしょう? そしたらまた一つ、二つ、仕事が、家事がと三つ、四つ、忘れていた事が溢れ出てくる。此処は私の「逃げ場」なの、逃げてばかりじゃいけないわ。
その存在は困ったように、何も言い返さなかった。
ただもう一度、一度だけ、ささやくようにつぶやいた。
「忘れたって、いいんだよ。忘れることが、できるのだから」
できるのだから。
出来ない事もあるのかと振り返ったところで、誰もいないテーブル席と壁にかけられた小さな絵しかそこには無かった。
サツマイモのケーキを一口分だけ、じっくり味わってから、ミルクがとろけたココアを飲む。
私はミニノートパソコンを閉じた。会社の書類も鞄に閉まってしまおう。
もうすぐケーキもココアも無くなる。お代わりをするほどお財布は厚くない。
マスターと短い会話をして、あのドアをくぐったらまた現実の私に戻るから、今はもう少し、少しだけ、此処に逃げてても、いいよね……?

 

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