金星

三浦加奈子は紙を切る。
数年前、無印良品で210円くらいで買った、鋏一本で紙を切る。
何故、このような事を始めたのか。
確固たる理由を、彼女は思い出せない。
大学進学に合わせた引っ越しの際、自治体のルールで「段ボールなどの大型紙類は引き取り料がかかります」と言われて、引っ越しが完了した日の夜、一人で段ボールを切っていたから?
それとも小学生の時、ワークホリック気味の母親から「加奈子はプリントを、ノートをまとめるのが好きね」と、初めて褒められたからだろうか。
「個人情報の流出対策としてシュレッダーが欲しいのだけれど、あの機械はとても、お値段が高いものなのかしら?」
そんな相談を投げかけた時、当時交際関係にあった年上の男性は、少し疑問符を浮かべてからだけれどもこういった。
「それはどうだろう。でも確かに、俺の職場にも一台しかないな、シュレッダーは」
その回答を聞いて、加奈子は思った。それなら鋏で十分だ、と。
時々考える。でもすぐどこかに忘れ去られる。
じゃく、じゃく、じゅあく、ばちん。
じゃく、じゃく、じゃっく、ばちん。
鋏はまるで楽器みたいだ。
鋏の付け根辺りで切ると、少し重たい音がする。じゃくり、と。
鋏の先っちょで切ると、金属同士がぶつかり合う、心地良い音がなる。ぱちん、と。
それだけではない。
どんな紙を切るかでもまた、鋏が奏でる音は違う。
薄っぺらいチラシは、鈍い鈴のような音がする。しゃん、しゃん、と。
厚手の紙は、土を踏みしめてるみたいな音がする。ざっ、ざっ、と。
段ボールはその厚みにもよるけど、ごりごりとしていて、切り終わった時には右手が痺れてるから、加奈子はあまり好きじゃない。
眠れない夜は、ダイレクトメールとか、要らなくなったチラシとかを、加奈子はひとりで切り刻む。
時々、高校時代の懐かしいプリントやノートが出てくる。
ノートには時々、暇つぶしだ描いた落書きや、仄暗いポエムなんかが書いていたりもする。
加奈子はそれも、鋏で切る。
段ボールの次に切りにくい紙は、おそらく雑誌かノートだろう。
だけど加奈子は迷わない。
数ページずつ切り取って、数ページ単位で鋏を入れる。それなら簡単に刻める。
ページを全部切り終わって、最後に少しばかりの小口と共に残った背に、思い切り力を込めてバツン、バツンと切り落とす。
私が生きてきた人生、とは、この200円だかくらいの鋏一本で、ゴミ箱に捨てられる程度のものなんだ。
一仕事を終えたあとの加奈子には達成感などなく、どちらかというとからっぽに近い。絶望も希望もない、ただの空虚。
切り終えた紙は、コンビニのビニール袋の中に入れる。床に散らかしてから集めるのは非常に手間がかかるから、切り落とした端から、ビニール袋の中に落としていく。
一通り切り終えたら、右手の人差し指の第一関節の、やや内側の方に、靴擦れみたいな痕がほんのりと赤く残っていた。切ってる途中ですりむけてたのだろう。
鋏を手から放してみて、初めてそこがひりひりと痛んだような気がした。
絆創膏が見当たらなくて、仕方ないから少しだけ舐めておいた。
ちゅん、ちゅん、と小鳥が鳴く声が聞こえた。
外がほおんのりと白んできていたから、加奈子もほおんのりと瞼を下げる。
古ぼけたインクと、180円だかの鋏。
ばらばらになった夏を先取りしてるマネキン。
ばらばらになった因数分解の公式。
少しだけ疲れた右手。
いつの間にか出来ていた、左手にあるピンクの直線。あんまり痛く、ない。
ちゅん、ちゅん、と、小鳥が鳴く。
加奈子は思う。
「ああ、こうしている間にも、時間は過ぎる。時間は、すぎる。ああ、眠らなきゃ。ああ」
ぼそぼそと呟きながら、紙屑が入ったビニール袋を二、三個、自治体指定の可燃用ゴミ袋の中に入れた。
ちゅん、ちゅん、と、鳥が鳴く。
加奈子は黙って布団に入る。
仰向けになるとカーテンの隙間から、青とも白とも言い難い明るいばかりの空が見える。
インクの香りがする。インクと、鉄と、錆びの香りがする。
微睡んだ瞳が完全に伏せられるほんの少し、前。空で何かが光った。
加奈子は構わず眠りについた。ええ、だって、だってそれは、きっと、金星。

 

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