マイルドセブンが消えた街

 午前、激しく吹雪いていた一月最後の日の空は、昼を過ぎると薄い灰色にまで落ち着き、放課後にはほんの僅かな青紫が雲間から覗く様になっていた。
 空っぽの教室の結露した窓に、とっくに帰った誰かの落書きを見付ける。
 溶けて滴る傘の意図は汲めないまま、私は空を見上げた。
 これは高校最後の、冬。
 暗い色のダッフルコートに薄い色合いのムートンブーツ、加えてチェックのマフラーというスタイルが最近の流行らしい。まぁ確かにうちの高校の真っ黒なセーラー服とタイツには可愛らしいのかもしれない。
 登下校中にその子たちを見ては、寒くないのかとか、靴が滑りそうだとか、スカート丈をあまりに短くしてはお腹を冷やすのではないかとか、要らない危惧をしてしまう自分が最近はよく顔を出す。十八年の生涯の殆どを所詮他人事なのだと切り捨てていた私の隣で、「所詮他人なんだけど、気になるね」と笑うのだった。
 エンジニアブーツの紐を固く結んで玄関を出ると、空の僅かな紫はもう紫と橙の入り混じった淡紅色になっていた。
 校舎の隙間を抜けて、冷たい風がスカートの裾を攫っていく。
 ニットのマフラーに鼻先まで埋めて、今朝コートのポケットに突っ込んだiPodを探した。
 冷え切った金属が指先に触れた時、校門に見知った人影を見つける。
 頭の頂点側だけが薄い、ちりちりの天然パーマ。
「先生、煙草?」
 近付いて声を掛けると、少し驚いたように肩を上げてから振り返り、歯を見せて幼く笑った。
「ああ、宮城じゃん。そそ、煙草買いに出たんだけどねえ、つい空見てたよ」
 四十四歳現代文教師は、そういってまた空を仰いだ。
「ああ、空。私もさっき、見てたよ」
「でも、もう、終わりだなぁ」
「うん」
「電車?」
「うん」
「じゃあ、自販機まで送ろう。最近学校付近に変質者が出るらしいしさ」
「既に隣にいる時はどうしたら」
「いやいやいやいや、それは、それは」
 淡紅色は薄紫に溶けて濃紺に近付き、それは空の殆どを埋める薄灰色の雲を巻き込んでどんどん黒へと変わっていっていた。
 点々と位置する街頭の灯り。校門から五十メートル程歩いた交差点の角にひっそりと佇む煙草の自販機は、今日も雪に埋もれている。
「そっか、県外の私立か」
「うん。私はあまり興味が無いけど、親はどうしても、教員免許持たせたいんだってさ」
「何の教員免許?」
「文学部だから高校国語?」
「それならそこの大学でも取れるのに」
 例えば俺がいい例、と、先生は笑った。
「ん、でも、私、この街嫌いなんだ」
「そっか」
 先生は足首まであるジャンバーのポケットからくたびれた革財布を取り出して、小銭を入れてから、そのままピ、と当てた。
「肩身狭いよ、煙草吸うのを追い出されて、次は何処でも年齢確認だ」
 私は黙ってマイルドセブンの3ミリのボタンを押す。
 カコン、と音を立てて落ちてきた箱を取り、差し出した。
「……もうすっかり覚えられちまったなぁ」
「『この、3ってのが、ポイント』なんでしょ? 先生」
 先生は煙草を一本取り出して、ポケットをまさぐる。出てきたのはライターだった。
「……ねえ、生徒の前じゃ、吸わないんじゃないの?」
「うん、だから、これを吸い出したら宮城は帰るんだよ」
 真意を測り兼ねて首を傾げると、先生は遠く、道路の向こうにある家の更に向こうに見えるパチンコ屋のビルの看板に向かって、大きく白い息を吐いた。
「俺さ、甘い物食べれないじゃない?」
「うん、前に聞いた」
「結構つらくてさ、それで煙草に逃げちゃうんだよね」
「私、嫌煙家じゃないし、仕方ないと思うよ」
「マイセンはさ、二十年くらいかな、ずっと吸ってたんだけど」
「うん」
「明日で無くなっちゃうのよ」
「え?」
「名称変更なんだって。マイルドっていう表現が、煙草の害が少ないっていう誤解を招きそうだからって」
「えー……それって、なんだか……」
「世の中、よくわかんねえよなぁ」
「……うん」
「たださ」
「うん」
「ただ漠然と、寂しいよ、俺は」
 先生は抑揚の無い声で、淡々と呟いた。
 私の相槌など最初から、要らなかったような話し方だった。
 先生の分厚い丸眼鏡は交差して過ぎていく車のランプを反射して、今、どんな眼をしているのかすら、私に見せてくれなかった。
 白い雪が、ふわりと空から降りてくる。
「また、今夜も、少し吹雪くかもな……」
 先生が、言った。
「電車、止まる前に帰りな? 俺も煙草、吸うから」
 私に向かって首を傾げた先生は、もう、いつもの先生だった。
「先生」
 私は先生のごつごつしていて赤い指先と、青い小さな箱を見る。
「私、卒業まであと四週間あるけど、卒業しても、まだ二十歳ではないけど、絶対吸わないから一箱だけ、マイルドセブン、買ってくれない?」
 先生は瞬きして、それから少し困ったように眉を下げて、ゆっくりと、静かに笑った。
「宮城がさ、俺が赴任してから卒業するまでの二年間で、初めて俺にしたお願い事が、煙草買ってくれ、だなんて、ちょっとおもしろいじゃん」
 断られるだろうと私は俯き、気まずさに後悔した。飲み込んだ唾液は苦い。先生は、動かない。
「410円、ある?」
「え」
「これ小銭入れだから、俺今あと千円しかないんだわ」
 私が慌てて財布を取り出している間に、先生はその千円札を自販機に入れた。ピ、と音がする。カコン、カコン、と水色の箱が二つ続けて落ちて、それからじゃらりとおつりが下りた。
「これ……」
「ん」
 先生は先に落ちた二箱を抱えて、おつりも無造作にポケットへと突っ込み、私が差し出した410円を自販機に落とす。
 チャリン、チャリン、チャリン、チャリン……チャリン。
 ……ピ。
「ボタン、押して。宮城のお金だから」
 恐る恐る、マイルドセブンの3ミリのボタンを押す。水色の箱は何も言わず、私の指先がボタンに触れるのを見守っていた。
 カコン。
 落ちてきた、箱を取り出す。
 先生の顔を見上げた。
「じゃあ、それ、俺にちょうだい。宮城に、こっちあげるからさ」
 言われるままに差し出した水色の箱は、先生が買った全く同じ物、しかも二箱になって返ってきた。
「ええと、先生?」
「内緒ね。宮城の煙草は、吸わないで取って持っておくよ。昔俺に、変な事頼んだ生徒がいたなぁって、じじいになってから思い出したいから」
「これは……」
「それは、俺からの卒業祝い。二十歳になったら、一箱吸ってみな。ああ、あのおっさん、こんなもん好きだったのかってでも、思い出しながらさ。もう一箱は、宮城に任せるよ」
 そこまで言って、先生はふと寂しそうに肩をすくめた。
「どっちにしろ、今日が最後だ。三年生だと、二月三月の出校日数なんてあって無いようなもんだろ」
 取り出しかけていた煙草に、先生は今度こそ迷わず火を点けた。
「遠くに出てっても、頑張れよ、宮城」
 私の頭を撫でた大きくて固い手の平は、表面はとてもとても冷たくて、内側はとてもとても熱くて、私は泣きそうになりながら、マイルドセブン3ミリの箱を隠すように胸に抱えて、必死に顎を引いて頷く。

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