背中の向こう側

 保育園の頃、お昼寝の時間というものがあった。
 昼食の後に少し遊ぶ時間があって、そのあと午後に二、三時間寝る。
 もしかしたら、たったの一時間そこらなのかもしれないが、遠すぎる昔の事なので記憶はとてもあやふやだ。
 僕の二歳下の妹はよく、こっそり年少教室を抜け出して、僕の隣で眠っていた。
 人見知りが強くて大人しく、また両親が共働きでもあった為、寂しいのだろうと先生たちは僕らをそっとしておいてくれた。
 僕たちはいつも、背中合わせだった。
 お互いに丸まって眠る類いだった僕たちは、いつも背中と、それから足の裏を触れ合わせて寝ていた。
 僕が小学生になり、二年後に妹も小学生になる。
 お遊び野球部に入った僕は部活から帰るとおやつを食べて、昼寝をしていた。
 晩御飯だよと母に起こされる時、妹の背中はだいたいそこにあった。
 妹は小学校に入学すると同時に、一人部屋を与えられた。
 でも例えば、まだ明け方に冷え込む事がある二月三月の夜はこっそりと部屋を抜け出して、僕の布団で寝ていた。
 その時ももちろん、背中合わせだった。
 華奢で細いのに年々柔らか味を帯びてくる気がするその背中の向こう側は、なんだか見てはいけないような気がした。
 僕が高校に入った頃から、徐々に妹が深夜隣に来る数が減った。
 年頃だから、とか、彼氏でも出来たんだろう、とか、僕は勝手に納得していた。
 両親は「やっとあの子もお兄ちゃん離れ出来たのかな」なんて笑っていた。
 実際、彼氏が出来た事もあるし、聞く話によると小学生の頃に「お兄ちゃんと眠る」と友達に告白して笑われた事もあったようだ。
 妹なりに、考えていたのだと思う。
 天気予報が大当たりして吹雪に見舞われた雪国で、なんとか僕はセンター試験を受験して大学への切符を手に入れた。
 引越しの日、遊びに来たら観光してやるよと肩を叩くと、妹は心底嬉しそうに無邪気に笑った。
 関東での一人暮らし、大学生活、高校時代は禁止されていたアルバイト。
 渋谷、新宿、池袋の雑踏。田端、日暮里、上野の緑。
 サークルの繋がりで、十九年目にして初めての彼女も出来た。
 家族ともたまに電話をした。
 妹は
「お兄ちゃんちに近い大学受けるんだー。彼氏も関東の大学受けるらしーし!」
 と笑いながら、その裏で必死に勉強しているらしかった。
 一年目の冬が過ぎ、二年目の冬が終わろうとしていた。
 妹は十二月の時点で割と有名な関東の公立大学に自己推薦入試で合格していたので、僕も安心していた。
 のんびりと続いてる彼女は、仲良くなれるといいなと笑った。
 僕も彼女と妹に、仲良くなって欲しいと思った。
 妹が上京した日、引っ越しを手伝った。
 その翌日、食事に誘って彼女を紹介した。
 二人とも僕から話を聞いていたので思いのほかすぐ打ち解けて、さらに共通の趣味(僕にはよくわからないバンドの事のようだ)もあったようで帰りには連絡先も交換していた。
 春が過ぎ、妹もバイトを始めた。授業が難しいらしく、連絡はすれども会う事は少なくなった。
 夏が過ぎ、妹は盆に帰省しなかった。僕は妹の分も祖母の墓に手を合わせ、送り火を焚いた。
 秋の半ばになる頃は大分余裕も出来てきたようで、よくメールも来た。ただ、僕の教育実習の時期に重なってしまった事もあり、相変わらず会う事は殆ど無かった。
 代わりに彼女から
『今週末は君の妹ちゃんと渋谷のシフォンケーキ食べにいくんだー! いいだろー? 女子会だぜーwww』
 と、ふざけたメールが月に一、二回は届く様になった気がする。
 冬になり、大学の授業が終わり、僕は拾得単位の結果に肝を冷やしていた。
 忘れるようにアルバイトを詰め込んで、更に就活も本格的に考え始めねばならないと進路に悩んでいた。
 二月、天気予報が外れて、関東で大雪が降った。
 翌日は晴れで、でもバイトに行く途中の住宅街に初めて関東のかまくらを見つけた。
 湿った色のアスファルトの上に、そこだけこんもりと詰まれた山。子供が一人入るくらいの小さな穴の中にはカラフルなスコップや小さなバケツが転がっていた。
 昔は冬が来る度に妹と一緒にかまくらを作って遊んだなと思った。でも、いつからそれをやめてしまったのかは、どうにも思い出せない。
 交通が麻痺するだの転倒事故が相次ぐだの、慣れない方々には大変だった雪も、雪国で育った僕にはなんの事も無かった。ただ、雪の日に傘を持って出かける理由だけは、関東生活三年目でも相変わらずわからない。
 僕がバイトから帰ると時刻はだいたい深夜になる。電気ストーブが放つじりじりとした熱を背中に感じながら、四畳半の部屋でカップラーメンを食べる日が続いていた。
 関東の冬は、一月よりも二月から三月に切り替わる時期が、一番寒い気がする。それが僕の感想だ。とても体感でしかないけれども、そろそろ春だなと油断した時に不意打ちで底冷えする朝がやってきたりする。
 三年目にもなればなんとなく日付が変わった頃辺りに、ああ、明け方は冷え込むな、という勘が働くようになる。
 明日、いや、今日の朝も冷え込むだろうなと風呂に入り寝巻に着替えた所で、ピンポンとチャイムが鳴った。
 深夜に来る可能性のある人間は、凡そ三人くらいしか心当たりが無かった。
 ドアスコープで確認した後、扉を開けた。
 目元を真っ赤に腫らした妹が、白い息を吐いて立っていた。
「どうしたの」
「お兄ちゃん……ごめん」
「うん、まあ入りなよ、甘酒かなんか作るから」
 妹の震えた声。指先が赤い手を見て、僕は肩を竦めた。
 電気ストーブの前にむりくり座らせて、僕は二人分の甘酒を作った。
 妹は殆ど何も言わず、それを受け取ってちびちびと飲んだ。
 携帯を確認すると甘酒を作っている間に彼女からのメールが来ていた。
 そういえば、明日デートの約束をしていた。
 簡潔に、妹がなんかやばそうな感じで来てるから時間を遅らせられないか、と返すと、五分も経たずに返事が来た。
 午前の予定を繰り上げて、昼食になりそうなサンドイッチかおにぎりでも作って来てくれるという。
 お前の家にはどうせインスタントしかないだろ、と辛辣な事実も言われたが、その一方で、女同士の方が話しやすい事もあるからいつでも頼れと優しい言葉を向けてくれる彼女に、僕は心底感謝した。サバサバしすぎだと思う時もあるがなんだかんだで気遣いを忘れない、この人が彼女でよかったとも、思った。
 ありがとうとおやすみの返事を返して携帯を閉じた。
「明日の昼くらいに、救援物資届くらしいから。まぁ今日は寝るといいよ。落ち着いたら事情聞くけど」
 妹はこくんと頷き、部屋の隅の何もない場所で膝を抱えた。
 僕は溜息を吐いて、こっち、と言う。
 一枚の布団は狭いが、変な寝方をされて風邪を引かれても困る。
 妹は遠慮がちに、おずおずと布団に入って背中を向けた。
 僕も背中を向けて横になる。
 背中が温かい。
 何年振りだろうと思った。
 彼女とは違う、昔から体に馴染んでいたような温もり。
 不思議と心地良かった。
 相変わらず華奢な背中。昔より更に柔らかくなった気がする臀部。
 昔、振り向けなかった向こう側を、今なら見れるような気がした。
「お兄ちゃんと背中くっつけると、やっぱりなんか落ち着く」
 とてもとても小さな声で、妹は呟いた。
 うん、とだけ、僕は返した。
 明け方は、とても冷え込む気がした。
 冷たい空気が鼻についたけど、僕の背中はとても暖かく、気持ちもとても穏やかだった。
 背中の向こう側で、静かな寝息が聞こえ始める。

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