春に凍える。

 ぽつり、と、雫が頬に当たった。
 穏やかとは言えない灰色の雲を仰ぎ見る。
「午後からにわか雨の可能性、だっけ」
 そんな私の呟きは、先を行く君に届いたのだろうか。
 夕焼けだんだんの坂道を、君は脇目も振らずに下る。
 私は近くても五歩後ろ。少しずつ雨どいを下し始める小さな店を視界の端に捉えながら、精一杯の早足で進む。
『あのね、此処のコロッケが美味しいの』
『このお店はね、君の好きな猫のグッズがいっぱいなんだよ』
 練習して、反芻もして、用意したいくつもの会話のきっかけは、雨粒がひとつ、またひとつ、私の頬にふれる度に、弱々しく溶けて消えてしまう。
 どうしても、八歩先を歩く君の耳まで、届ける事が出来ない。
 ぽつん、ぽつん。
 雫は一回り、二回りと大きくなり、私の頬を、肩を、髪を、急かすように叩く。叩く。叩く。
 アスファルトを抉じ開けて顔を出した、名前も知らない薄紅色の花を、叩く。叩く。叩く。
 君は私と丁度十歩、離れてやっと振り返る。
 何も言わずに私を見てる。
 祝日の人混みをよろよろと抜けて、私はようやく君の隣に並べる。
「寒いね」
 君はストールを口元まで上げて、小さな声で「うん」と答える。
 その手の平はパーカーのポケットの中に収められていて、「手を繋ごうか?」だなんてとても言えない。「寒いから嫌だ」と言われる気がして、恐らくそれは確信に近い。
 私は空っぽの手を握り締める。
 気温がまた少しだけ、下がったような気がする。
 ああきっと、雲間の僅かな夕日すら、隠されてしまったからだろう。
 春の雨は、雪になればいいのに。
 かじかむ指先を擦り合わせて、冷え切った手の平に吐息を吹きかけて、音を飲み込む白い世界でひらり舞い散る桜を見たい。君の隣で、それを見たい。君と手を繋ぎ、それを見たい。
 それが夢見事だとしても、もしも今これが雨ではなくて乾いた柔らかい雪だったなら。手袋を忘れた私の右手は、臆する事なく君の左手に触れられただろう。
 そして言うんだ、「君は相変わらず末端冷え症だね」。
 叶う見込みもない願いほど、とても虚しく鮮やかに私の瞼の裏に映る。
 小馬鹿にするように雨脚は強くなる。
 雨と寒さから逃げるようにして入った小さな喫茶店。
 コロッケもメンチカツも、猫グッズすら買えずに雨に打たれたデート。
 君がいつの間にか購入していた缶ピースだけが、アンティーク調の可愛らしい店内の一番端のテーブル席で妙に居心地悪そうしている。
「これ、三島由紀夫が吸っていたらしい」
「私の友達のお父さんも、確か吸ってるって聞いた事があるよ」
 あとから思い返せば、会話のような会話は、これだけだった気がする。
 珈琲と紅茶とチーズケーキを注文したらあとはもうずっと、君はスマホで大富豪してる。
 ねえ、知ってる? 携帯電話ってさ、トイレの便座よりも汚いんだよ。
 ほら、だって、四六時中それに触っているでしょう? それなのにろくに掃除も除菌もしないじゃない。ね?
 それでも君のスマホがやけに、今日は羨ましく見えた。
「寒いね」
「うん」
「ごめんね、こんな日に連れ回して」
「うん。まぁ仕方ないよ」
「ありがとう」
「うん」
「ねえ、あのさ」
「うん」
「手は冷えてない?」
「ほぼ平気」
「よかった」
「うん」
「ねえ、その」
「うん」
「…………いや、なんとなくなんだけど缶ピース、私でも吸える?」
 君はスマホの画面に夢中。
 そうこうしている間に、うだうだしている間に、頼んだものは順番に狭いテーブルの上を陣取っていって、君は缶ピースを鞄に隠してしまう。
 ああ、そうでなくても、ここは禁煙席。
 君が漸く大富豪から顔を上げても、今度は珈琲と紅茶とチーズケーキが二人の間に立ちはだかってる。
 手を伸ばせば届く距離。
 手を伸ばせない、届く距離。
 私はどんどん遠ざかっていく君と、その珈琲の中に消えていく角砂糖の数をただ茫然と数えてる。

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