第四次欲求

 僕の自意識を彼とする。
 彼の誇大妄想はさながら梅雨の湿気を帯びたかのように逐日肥大化していて、神経過敏なその性質がもたらす緊張性頭痛は悪化するばかりだった。
 彼の早熟さは僕と他人をほぼ絶対的に相容れぬ境地へと押しやり、近日に及び断崖絶壁たるとて過言ではないだろう。その谷は深く崩れる一方であり、僕は落下もままならぬまま大学で孤立する一方であった。
 本来の俺はこうではないのだ、これほど弱小ではないのだ、と、口の中でもごもごと呟くのだが、その矮小なミーイズムが増々彼を哀れにさせて、僕はそんな彼がどうにも、たまらなく愛おしいのである。
 日増しに日差しが強くなる、凡そ六月十五日の事だった。
 三現の授業を終えて大学の三号館より外に出る。雲ひとつない青空は妙に白んでおり、彼に哀れさとやるせなさをもたらす。空へと投身自殺をしても、今日はこの薄いスモッグに包まれて如何せん失速される気がした。
 赤赤たる天体の勤勉さに閉口すれば、青青たる並木を揺らす微風がさながら酔い覚ましのように頬を撫でて去る。明治通りに路上駐車する二台のバンが右か左かとその白さを競い、その隙間にぽつぽつとつつじが咲いている。
 彼はリルケ詩集を片手に、相変わらず形容も表現もしがたい空想に耽りながら校門へ向かっていた。
「私は神を、太古の塔をめぐり
 もう千年もめぐっているが
 まだしらない 私が鷹なのか 嵐なのか
 それとも大いなる歌なのかを」
 蟻が囁くような声で呟く。往々にして彼は本というものを読み切らない。ツァラツストラも論語も、村上春樹もマルクス・エンゲルスも同様である。リルケ詩集の一節も文庫の尤も最初に載っている作品で例外ではない。二、三ページ或いは十数ページほど読んでは「僕にはまだ尚早だ」とか「あまりに素晴らしいから後程腰を据えて読もう」だとか、なんだかんだの理由を付けては数日或いはもう二度と本を開かない。今日もミザントロープの夜に思いを走らせる彼は、空想によって悪化する潔癖から視線を逸らし、穏やかな救済の海に漂うのであった。
 ふと我に返る。足は丁度、校門に差し掛かろうとしていた。
 相対して近づく人影に、彼は気付いてしまう。
 薄紫の妙にデフォルメされた花柄の服を着ていた。
 大学一年時の過ち。半年程の交際を経て、冬に散々な夜を越えて無事に離別を告げた同級生であった。
 彼を名前で呼ぶのは、彼女だけであった。それは離別の後に何度か止むを得ずに交わした会話でも変わらなかったので、今も間違いなくそうであろう。苦虫を数匹まとめて噛み潰したような不快感に襲われ、一瞬歩調が乱れる。
 優秀な彼女が自分の名前を親密に呼ぶ度に、彼は言いも得ぬ高揚とそれ以上の劣等感を感じた。
 早熟さはそのインフェリオリティー・コンプレックスをより強固なものとして、自分は他者と異なるのだという自尊心が募る。それが満たされない現実に辟易し、横暴に振る舞えば後悔がついてまわり、自己主張と自己肯定の間で極端に揺れ動く感情は彼をすり減らしていった。
 思えば交際を続けた半年、彼女と共に愉快に笑う裏側から僕は常に冷めた視線を送り続けていたように思う。
 まるでその名を奪われた昔話の邪鬼のごとく、なさけない気持ちに陥る。
 彼女が好んだ紫色を何処かで見かける度に、今まさに名を呼ばれたような嫌悪が彼を襲う。
 恋愛は害悪だと、先生も言っていたはずである。
 淫風を憎め、藍より青たるを憎め、朱を奪う紫を憎め。
 彼はひたすらに言葉を繕って理由を重ね、彼女を憎み、僕を守る。
 擦れ違い、通り過ぎる。彼女は僕に気付いたそぶりもなく、携帯を弄りながら校舎へと向かう。
 安堵と喪失にまみれた劣弱意識。依然とした敗北感に頭痛すら緩和した。
 ただただ君に認められたいばかりなのだと気付いた冬の日、僕は彼女を捨てたのである。

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