P-O-X

 ――例えば、一番好きな異性に振られて付き合えない時、二番目に好きだった異性にデートの約束をしようとするのは、典型的な「代償行動」であるといえる――

 八月。
 毎日が「過去最高の気温」の、八月。
 肌に纏わりつく湿気で髪の毛がうねる、八月。
 アスファルトとコンクリートの樹海ですら、溶けて滲んで横断歩道の向こう側で、誰かが手を振っている、八月。
 この人専用の作り笑いに慣れてからどれほどの時間が過ぎたのか、数えるのすら億劫になってしまった、八月。

 18度に設定した冷房は六畳のワンルームを冷蔵庫へと変化させ、昨夜から出しっぱなしのミントティーも、なんだか程よく冷えている。
 あまりの寒さに出した毛布に包まりながら天井に無い節穴を数えようとしている私に、身体を起こして動き出すという選択肢なんぞ無い。
 枕元にあるスマートフォンが、時々ピロリンピロリンと鳴く。どうせ彼氏君の妹君による他愛無いを通り越した、なんで一々私に報告してくるんだろうとすら思う雑談だろう。放置安定。遮光機能の無いカーテンを通り抜けて熱を振りまく太陽が失せた後に「ごめんね、バイトだったの」とでも言っておけばいいだろう。……あれ、これ、先々週に使った手だっけ?
 ベージュのカーテンで濾された光と、それで生じた影は白い天井を薄桜色にさせて、私は相変わらず、起き上がりたくない。
 動きたくない。考えたくない。あるはずのない天井の、染みのようなものを探し続けてる。
 暑さで身体が疲れると、脳味噌まで溶けて、耳から流れ出してしまいそうだ。
 脳味噌の中にある私の本音が溶けて、溢れ出してしまったら。
「ああー、ないない。ないってば」
 たった一人の部屋で、怖がる私を慰めた。
「大丈夫。だいじょーぶ。ダイジョウブだから。瑞菜さん、大丈夫だから安心して下さい」
 自己暗示めいた独り言を天井に向かって一通り吐き出したら、ふっと肩の力が抜けた。
 毛布に潜る。瞼を閉じて、頬ずりをした。
 寝汗で湿ったシーツが、妙に素肌に馴染んだ。
 布団の中で繰り返す呼吸は、きっと梅雨より湿気を帯びていて、息が苦しくなる。
「……動くか」
 スマホの隣に放置されたエアコンのリモコンに手を伸ばす。
 停止ボタンはシリコンなのに、スイッチを押した瞬間、何処かがパチンと鳴った。

「相変わらず綺麗な部屋だなー」
 マイペースな彼氏君は、午前九時になるとほぼ同時にやってきた。まるで小学生。夏休みをずっと満喫していたい、小学生の様な就活生。
「そうかなぁ」
「俺の部屋の有り様、知ってるでしょ?」
「あれ、巣じゃなかったんだ……」
 私は冷蔵庫から麦茶を取り出して、マグカップに手を伸ばし、一瞬迷ってからその隣に並んだペアグラスを取った。
 空のグラスと水出し麦茶の大ボトルを持って台所から戻ると、他人のパソコンを勝手に起動させて動画サイトにアクセスしようとしているところだった。このマイペースの所為で私は、パソコンの管理ユーザーにパスワードを設定した上でかつ、標準ユーザーも追加しておく羽目を被っている。
「さんきゅ。あ、クーラー25度に下げたから、もし寒くなったら言ってね」
 麦茶を手渡せば短い感謝。これは完全に自宅顔だ。さてはこの男O型だな、なんて思っていたらやっぱりO型だったからなんだかすごく遠い目をしてしまったのは、もう何ヶ月前の話だったかなぁ。
 そんな事を考えていると、なんだかカモミールティーにミルクたっぷり入れて飲みたくなった。気がした。
 だけど「気がした」だけだったので、冷え切った麦茶をちびちびと飲んだ。
 ディスプレイに映し出される、精子を適温で育成させると平均寿命八年で云々というニュースについて、食いついたように話を広げていく自分が、なんだかやたら滑稽だった。それを認めるのが怖くて、ずっと話を続けて、ずっと言葉を並べていた。

「人間は猿の突然変異でしょ?魚は微生物の突然変異でしょ?」
「あ、そういえば」
「あー、なるほどねえ。そういう考え方もありだね」
「だってほら、『鶏が先か、卵が先か』っていう有名な話があるじゃん?」
「その答え、ぶっちゃけ今はどうでもいい」
「なんでさ」
「うん」
「話を戻すけど」
「そう?」「私は思うんだよね」
「その理屈は知らないけど」
「まぁ」
「……うーん」

 彼氏君はきっと(それが単なる私の思い込みならとてもおこがましくて、申し訳ないのだけど)、私に対して、かなり高いレベルでの好意を持ってくれているんだろう、だなんて漠然と、盛り上がりつつある二人の会話を、もう一人の「花巻瑞菜」が毛布の中から無言で眺めている。
 花巻瑞菜、本体はどっち?
「でも人間って結局、自分が心地良い環境を無意識に作ろうとするから」
 その時不意に、とても何気無く放たれた彼氏君の言葉に、一瞬息が詰まった。咄嗟にそうだね、と、誤魔化す。
 一拍、二拍。心臓の音。
 昨日は日差しを遮ってくれた遮光出来ないカーテンは今、カーテンホルダーによって拘束されてしまっている。
 八月の朝の光。熱。青すぎて眩しい空。薄桜色にならない部屋の壁。
 ふと見上げた天井には、嗚呼、染みのひとつすら、ない。
 彼氏君がいうように「自分が心地良い環境を無意識に作ろうとする」なら、私が今行っている事はなんだろう。
 つまらない傷を癒す為の作り笑いと、無いはずの興味を作り出す程度の能力。
 不意に、急に、何故か、「別れようか」と言いたくなった。
「お気の毒ですがあなたは、何処カノ誰カサンの代わりだったのでした!」なんて、告げてみたくなった。
「大変御愁傷様です」、と。
 25度設定の冷房はもう殆ど息をしていなかった。
 中途半端にぬるい麦茶を、ゆっくりと、一気に飲み干した。
 ペアグラスが、微かに結露していた。水滴がまるで、冷や汗と呼ぶには奇妙な一種の興奮のようだった。
 暑さで溶けだした脳味噌は、耳から出るんじゃない。それは口から出るんだ。
 それに私は気付いてしまって、呆れ返った微笑が、唇を徐々に歪めていく。
 彼氏君はそれに気付いた素振りもなく、ゲームのプレイ動画を眺めている。
「――……私、そろそろ溶けて、スライムにでもなりそう」
 揶揄と自嘲と自虐を、画面の上の青いゲル型弱小モンスターに重ねる。
 私の脳味噌も、こんな健康に悪そうな青なのかなあとぼんやり思いながら。
「その時はちゃんと、ひのきのぼうで殴ってやるよ」
 心臓の、音が聞こえた。
 ひのきのぼう。序盤の最弱武器。
 彼氏君は相変わらず、ゲームのプレイ動画を眺めてる。
 ちゃらららっ、ちゃっちゃっちゃー。
 ああ、レベルアップもした今の君なら、私の脳味噌をぶん殴る事も出来るんじゃないかな。
 叩き直れば、いいな。

 ――……このF.ハイダーが提唱した「P-O-X理論」は、ある人(P)、相手(O)、対象(X)の三者による三角関係について、態度が好意的であれば《+》、非好意的であれば《-》として表し、三つの符合の積が《+》になれば快適、すなわち均衡で安定した快適な状態であるという理論です。符合の積が《-》になれば、それは不均衡状態であり、無意識に均衡状態へ向かうようにと圧力が生じてくるというものです……――……例えば、ある人(P)は珈琲が好き《+》。そして(P)は恋人(O)が好き《+》。しかし(O)は珈琲が嫌い《-》だとする。この場合、符合の積は《-》、つまり不均衡状態であるから、恋人(O)が珈琲を好きになるとか、(P)は(O)と別れて珈琲が好き《+》な別の人と付き合うとか、デートの時には珈琲(X)以外のメニューもあるお店を選ぶとかで三者間を均衡状態にしようと……まったく。昼ご飯の後の授業だから眠りたくなるのもわかるけど、この部分は次の試験に出しますからね……――

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