ハイナン・ララバイ

 照りつける太陽。熱帯地域特有の緑。その二つが化学反応起こして発生される、じっとりとした癖のある匂いの酸素。ぶんぶんと飛び回る、まるでスイミーの如く集団を形成しているがしかし全く可愛げも何もない蝿よりも小さな謎の虫。あとまだ見ていないが「噛まれたら死ぬから逃げろ」と言われた蛇がこの藪の何処かにいるらしい。
 目の前に広がる、赤石川がいかに一級河川と言われるほどの清流だったかと目に物を見せつけてくる黄土色の川。
 いや、川っていうか、河。
 一応岸は向こう側にあるんだろうが、遠すぎて見えない。汗で滑り落ちてきた眼鏡を上げて目を凝らせば微かに遠くに岸みたいなものがあるようにも、見えなくはない。浅瀬がずっと続いていて、所々干上がりがちだって先生が言っていたっけ。
「なぁんで、こんな事になっちまったかなぁ」
 俺は馬鹿でかい木というか樹の下で肩を竦めて溜息を吐いた。
 溜息を吐くしか、なかった。
 俺のGショックは最新で日付表示機能は9月13日午後2時を示していた。
 太陽は丁度、南中にある。

 初めに言っておくが俺は文学部だから『通常』四年制なので、ある程度の事は察してほしい。
 それは大学五年生の夏。 
 ありのままに起きた事をありのままに述べるなら、「前期の単位を落としたので卒業見込みが無くなり、教授に頭を下げにいった所、自費になるがたまたま夏休みに現地調査の仕事があるのでそこで荷物持ちをするなら特別に単位出す、といわれ、家族にも相談したところそれなら安いもんだという一言と共に今、東南アジアの僻地にいる」という事である。八月が準備で怒涛過ぎて、自分でも何を言っているのかわかっていないのだが、ありのままに起こった事なのでどうか許してほしい。
 教授は滅法変わった人で、フィールドワークだというのだが、今、集落の長老と話をしている。知り合いらしい。
 良いように旅の荷物持ちにさせられてしまった感が否めないまま、こうして木造建築と緑と水とやたら広い空を眺めている。
 時は九月。地元は北国だし、例年通りならぼちぼち長袖なんだよなあと思いながら、ぼたぼたと落ちる汗をぬぐい、シャツの裾を絞る。
 がさ、と、音がして顔を上げると、まだ十代そこらの男の子と女の子が早足で藪から姿を見せた。
 焼けた健康的な肌と、鮮やかな刺繍が施された麻の服。なんとなく目鼻立ちがきついような印象に、あ、今、俺、異国にいるんだ、という自覚を与える。
 宛てもなく巨木の下に立っていた俺を見て、少年少女はもろにびくっと驚いて、また早足で藪の中に消えていった。
 そうだよな……飛行機の後に十二時間ほどかけて道なき道をシープで走ってきたもんな……外人なんて、初めて見るよな……。
 なんだか申し訳無い事をしてしまったような気がした。
 ふと視線を落とすと、木に寄り添うように小さな白い花が咲いていた。
 ふにゃりとした酷く頼りないような、でも意図的なような不思議な曲線を描くその花に、恐る恐る手を伸ばす。毒とかないかなって、思いながら。
 手折る時に、ふんわりと甘い香りがした。一本じゃ心許なくて、二本折った。
 もしも大丈夫そうなら、集落であの二人に会った時に、詫びのつもりであげたいって思った。

 翌日、集落で挙式が行われた。あの少女の結婚式だった。
 未開社会に関する知識として知っていたくせに、早すぎるだろ、って思う自分がいて、それを仕方がなかったんだと脳味噌が押し止めている。
 もちろん相手はあの少年じゃない青年で、あとはとてもとても本当に語るまでも無いよくある話だ。
 ただ、それを、もろに見ちゃったっていうだけの話だ。
 あの白い花は、一応水に差していたけれども手折った翌朝には枯れてしまっていた。
「風蘭だよ。この辺の木に寄り添って咲く、夏の香草だ」
 先生はその日の夜、待ちくたびれて花を摘んできた俺をおもしろそうに見ながら教えてくれた。
「授業でやった事、覚えているか?」
 問われて、少しだけ空気が止まって、この文化圏においては香草は呪力を伴っておりそれは男女のの契り、まで俺の脳味噌が思い出した辺りで口が「覚えていません」と、答えていた。
 先生は溜息をついて、俺は俯いた。
 結婚式の名残が残る夜、風に辺りに宿泊している家の外に出た。
 煙草に火を点けながら、思えば、これも「香草」なんだよなぁって思った。
 なんて思いながら薄っぺらい煙を吐き出す。脳味噌に何かが染み込んでいく。
 もし滞在中に一度でも、あの少年と会う事があれば、一本渡して吸いながら、なんか話してみたいと思った。でも、これといって語学が得意な訳でもない。
 気持ちばかりが先行している自分が心底どうしようもなくて失笑しながら俺は、更にもう二本火を点けて、最後の一本にも手を伸ばしていた。
 マイルドセブン3mgの文字が今、一瞬滲んだ気がして、空っぽの箱をつい握り潰す。

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