秋に凍える。

 誰かと付き合ってそして別れるという事は、私にとって、これといって重大事件ではない。
 重大といえばもちろん重大だけど、ごはんを食べたくなくなって、宮城ちゃんや三吉ちゃんにすごく心配をかけた事を漠然と覚えているくらい。
 それ以外の事は逆にぼんやりと霞がかかったようで、彼と過ごした時間が、日々が、随分遠くに感じられる。それだけ。たったそれだけ。
 ただ、これといって充実している訳でもない日常の時間がとてもとても早い。朝起きては学校に向かい、授業を受けて帰宅して、家事をして眠るというルーチンワークが異常に早く感じる。気が付けばもう、金曜日の、夕暮れ。
「もう歳時記から『秋』を無くしてもいいんじゃないかな」
 そんな皮肉が一部の後輩のなかで言われている。だから決して私の時間間隔だけがぼけちゃった訳じゃ、ないと思うんだ。きっとそう。
 あれからもう一年近く経つんだと思うと、やっぱり何もいえない。
 晩秋の風があの頃と同じ厚手のストッキングをすかして通り過ぎていく。ああ、最近なんだか瑞菜さんと女子デートしてないな。連絡もあまり、とってないや。人ってこうして、疎遠になっていくのかな。
 相変わらず東京の空は掴みどころというか雲が全くない、スモッグのかかった水色をしていて、徐々に始まる渋谷のネオンの所為で、汚い映画館みたいだ。
「なにも……――なんも、空は『空っぽ』じゃ、ねえべさ」
 都会に出て初めて出した故郷の言葉は、アスファルトを叩くヒール音よりも、花金で賑わう喧噪よりも、ひんやりと温かく、ぼんやりと確かに、私の身体に馴染んでいった。
 遠くなっていったのは、きっと、君じゃなくて私の方。
 きっと、私の方。

 憂愁に心を奪われていたら、待ち合わせの六時はとうに過ぎていて、私はなるべく急ぎ足で、街頭配布のアルバイターの隙間を縫うように、若者よりも中高年が似合う道玄坂近くの路地裏に急ぐ。
 赤い提灯に「やきとり」と書かれた、日本酒の空き瓶が何本も軒先に連なっている居酒屋「ねこじゃらし」が、学校近くのカフェの他、もうひとつの私たちの溜まり場だ。
 この店を見つけてきたのは宮城ちゃんで、何故大学生向けに安さをアピールしてるチェーンじゃだめなのかと聞くと、彼女は珍しく狐につままれたみたいな顔をして、
「だって、美味しくないじゃん。魚とか、主に魚が」
と、答えた。
 確かにそれは私も感じていた事だったけど、飄々とその場に合わせていつの間にかいなくなるタイプの彼女が、出会ってからの一年少々のうちで頑なに主張したものがそれだったから、私はお店に入る度に、あの時の顔を思い出して笑みがこぼれてしまう。
「私も、煩いのが、苦手だから」
 私たち三人の中ですら聞き手に回る事の多い三吉ちゃんも、静かに同意してから、息抜きの「三人会」はこの「ねこじゃらし」でと決まっている。ほぼ例外なく、今日も。
 何回か通ううちに、三吉ちゃんが言った事の意味がなんとなくわかってきた。
 チェーンの居酒屋は大学生のゲラゲラとした笑い声があっちこっちから上がって、反響して、安さに見合ったものが出てくる。
 でも「ねこじゃらし」は、そもそも店内があまり広くなくて、年季の入ったカウンターと大きなテーブルがふたつだけ。満席の時はトイレまですら移動が一苦労。料理は特別安くもないけど、でも魚介も野菜も新鮮だし、三人で割り勘すれば結局チェーン店で飲み食いするのと大して変わらない値段になる。
 相席を頼まれる事も、決して少なくない。だけど逆に、少人数でゆっくり話したい大人たちが多くて、喧噪の質がどうも違う。それに相席になったところで、目には見えない境界線が引かれる。暗黙の了解。その境界線は、煙草の煙さえ、越える事がない。
 私たちの中では宮城ちゃんだけが、日常的に煙草を吸ってる。ヘビースモーカーみたいにスパスパとは吸わない。ゆっくりと時間をかけて、あらゆる退屈を潰すように、メビウスの3mgを吸って、最期は何か恨みでもあるのかと思う位ぐりぐりと灰皿に押し付けてぐちゃぐちゃにする。グロスじゃない、口紅でもない、メンソレータムのリップクリームが塗られた薄い唇からは、しばしば細く、長く、静かに白がもれてる。宮城ちゃんは煙草を、美味しそうには吸わない。絶対に吸わない。かじかんだ指を温めるみたいに、つまらなさそうに、寂しそうに、吸う。だから私はなんだか、この人は一人だけ、いつも真冬に生きてるみたいだなって、思う。
 「ねこじゃらし」に一歩踏み込むと、今日はまだ人の入りが少ない為にいくらか歩きやすくなっている店内の一番奥のテーブル席で先に飲んでる二人を見つけた。
 相変わらず宮城ちゃんはなめろうと日本酒を舐めてて、三吉ちゃんは漬物を齧ってる。だから私は、「相変わらずだなぁ」って、笑う。笑える。そう、笑え「る」の。可能の助詞。
 宮城ちゃんと三吉ちゃんは、仲が悪いわけじゃない。
 宮城ちゃんは面倒くさがりで、必要な事じゃないと言いたくないタイプ。
 三吉ちゃんはすっごい人見知りで、自分から話題をぽんぽん振っていけないタイプ。
 普通、会話が何もないと人間って不安になるもんじゃないのかなあって私は思うんだけれども、二人とも「そう?」って首を傾げて、無言は無言で悪くないもんだ、って感じの内容を口をそろえて言うもんだからとても、とても、とってもおもしろい。きっと、何処か深いところで気が合ってるのかな、って、思う。
「おまたせ」
と声を掛ければ
「おまちしてたよ」
「お疲れ様」
 と二者二様のお迎えの言葉。
 カルピスサワーと唐揚げを頼んで、改めて三人でカンパイをする。
 他愛無い会話から始まって、唐揚げが出来上がる頃、ぼんやりと三吉ちゃんが呟いた。
「なんで秋って、寂しくなるんだろ」
 一拍の間をおいて、夕方の自分を思い出して、揚げ物の香りの中で頷く。
「私もそれ、思った」
「昔から秋愁だの幽愁だのっていうから、だいたい皆そうなんじゃない? 季節の変わり目だし」
 客観的な宮城ちゃんの反応に、そんなものかなぁと、三吉ちゃんと頷く。
「でもね、なんか、今年の秋は、変」
 ぽろっと、私の口から出た言葉。違和感の主張。
 あれ、なんだろう? 違和感が、風船みたいに膨らんでいく。
 それなのに、次の言葉を用意出来ていないのに、小さな呟きに四つの目が向けられて、私は。
「変、って?」
「なんでだろう、ねえ……」
 濁して答えを探しながら、両肘をテーブルについて、右の手の甲を唇に当てた。
 目にとまった薬指が、からっぽだった。一年前、銀の指輪が光ってた指。
「ああ、そうだ」
 私は肘をついたまま手を返し、自問に答えを見つける。カルピスサワーの氷が解けていく。
「手がね、寂しいの。掴めるものが、何もなくて」

 やっとそれに気づいた。

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