廻り還る街 -Möbius-

 除雪車は重低音と共に、ありったけの雪を押しのけて、押しのけて、歩道を埋めて走っていく。
 私が生まれ育ったこの街は、今日も相変わらず白い。
 高校生だらけのカラオケと、ショッピングモール内のゲームセンターにパチンコ。それから高速道路の脇にぽつんとある城を模したラブホテル。
 その程度の娯楽。それしかない、娯楽。
 渋谷や新宿の喧噪なんかとは比べようがない。居酒屋の客引き一人すらもいない。
 じゃり、と雪を踏み潰すと、綺麗にエンジニアブーツの足跡が残った。
 なんとなく振りかえってみると、私の足跡は随分遠くから続いていて、なだらかな左曲がりの辺りから、ひらひらと降る雪の中に溶けて滲んでいた。
 コートのポケットの中で、私は手を握り締める。
 右手にはフリスク。左手にはライター。
 見上げる空は柔らかい鼠色をしていて、高く、薄く、遠くまで広がっている。この雲が覆う全ての場所で、こんな柔らかい雪が降っているのかなと考える。
 吸い込む空気は耳鳴りがするほど白く、吐き出す吐息すらかじかむ指には冷たい。ただただコートのポケットの中で、握り締めた手と共に、最初の言葉を考えていた。

「高橋? 高橋って、どこの?」
 母校に帰り、事務室で一番最初に聞かれた事がそれ。
「現代文の高橋先生。まだ此処にいるって聞いたんで、来たんですけれど」
 私が留年した年に赴任してきた教師は、地元の友人に聞くとまだ母校に勤めているという。たしかね、なんて曖昧な言葉に一抹の不安を抱えて、電話は電話で面倒臭いから取り敢えず平日に足を運んでみた。
 一応一部地方の中での進学校という場所なので、冬期講習でてんやわんやしているらしい。大学受験を目の前にして、窮鼠のような一月後半。
 事務員と幾つかの問答を繰り返している途中に、終わりのチャイムが鳴り響く。懐かしいこの音が何処から流れ出てくるものか、それすら知らないまま私は、それこそパブロフの犬の様に顔を上げて、ふう、なんて一息吐く。何もしてないくせに。
 ややあって、職員室内で先生の居場所を確認していた事務員が再び、職員・来客用正面玄関にある小さな窓の向こうに戻ってきた。
「高橋先生ね、雪かきしてるって。駐輪場の方にいるはずだから」
 ありがとうございました、という短い感謝を述べながら、ああそっか、此処は雪国だから、教員ですら雪かきするんだ、と、思う。
 真っ黒なアスファルトに溶けて消える、そんな軟弱な雪なんか降らない、冬に閉ざされる白い街。
 じゃり、ジャリ、じゃり、と踏み潰していく新雪に、私の足跡が残る。
 降ったばかりの雪は、本当は「じゃり、じゃり」なんか言わない。本当は「ぎゅむっ、ぎゅむっ」て、喩えるなら海月の鳴き声に似ている。
 東京みたいに湿っぽい雪は、この街には降らない。
 氷点下の世界でふわふわに乾いた雪が、私の肩を少し白く染めていく。
 駐輪場まで行くと、降るばかりの雪はある程度一ヵ所にまとめられていて、私はその脇の軒下でぼんやりと空を見ている、先生を見る。
 黒い長靴と、足首まで覆う厚手のジャンバー。
「――……お久しぶりです、先生」
 昨夜からずっとずっと考えていた、一番最初の言葉。
 先生はぴくっと肩を揺らして、空に向けていた視線を私へ向ける。
 一秒、二秒、三秒。
 先生がゆっくりと口許に微かな笑みを浮かべる。
「ああ、宮城じゃん。おかえり」
 私は咄嗟に「ただいま」なんて言えなくて、少しだけ眉尻を下げた。
「大学、どうした?」
 先生は赤みのさした鼻を擦りながら尋ねた。
「ちゃんと、卒業したよ。高校国語の資格も取れた」
「在学中に?」
「うん。それで、春から、こっちで非常勤」
「……そっか」
「……うん、だから、報告までに」
「ははっ、そうか、そうか」
 先生は、昔からそうだったけど、やっぱり四年の歳月は長くて、少しだけ「おっちゃん」みたいな雰囲気が強くなってた。
「あとね、先生」
 おずおずと私は、今はもう、何処でも買えないマイルドセブン3mgのボックスを肩掛けのショルダーから出した。先生の顔はちゃんと見えていなかったけど、微かに、息を吸うような音が、雪に交じって聞こえた。
「20歳になった日、一箱吸った。その後はメビウスの3mgを、ずっと吸ってた。でも正直いうと、まぁ苦いかな。だから、先生が好きなものの味、結局まだ私にはわかんない」
 苦笑いを浮かべて、肩を竦める私に、先生はずっ、と鼻をすする音を立てて何も言わずに口許を緩めた。
「先生」
「ん」
「あの日の約束覚えてますか」
「んーや、悪いな。宮城が大人に煙草を買わせる変な生徒だってのは、たまに思い出していたけど」
「あはは」
「でも、宮城が卒業したあとに、何人も新入生とか卒業生を見てきたけど、俺に煙草を買わせたのは、後にも先にも宮城だけだったよ」
 その言葉に苦笑する自分と、根拠無く狼狽える私の心臓の音が聞こえた。
「あの日、先生、こういったんですよ」
「うん」
「一箱は二十歳になった時に、もう一箱は、私の好きにしていいって」
 先生は、あー……なんていう曖昧な、でも心当たりがあるような間延びした声を発して、私はしてやったり、って、微笑む。
「だから、この一箱は私の好きにします。……ところで先生、一本、如何ですか」
 先生は肩を竦めて、小さな声で賢しいんだかなんだかってぼそぼそと笑いを押し殺そうとして、口許を綻ばせていた。
「ビンテージものだ、くれるなら、ありがたく」
「はい。あ、学校の敷地内って全面禁煙でしたっけ?」
「携帯灰皿あるんだろ?」
「ありますねえ」
「一本二本くらい、バレりゃしないさ」
 フィルムを剥いで蓋を開ける。そこには綺麗に整列しているマイルドセブンがある。とん、とんっ、とフィルターを強めに叩けば、振動で少しずつ煙草が飛び出してくる。とってくれ、って言わんばかりに。
 先生に、差し出す。
 先生は箱には触れずに、目を細めて、それから飛び出してきた煙草の中の一本を選び取った。
 私は黙ってポケットからライターを取り出す。
 百円のライターは火の付が悪くて、火が出る端からすぐに消えてしまう。
 右手で風よけを作り、先生の口許に近づける。
 先生は、ん、って頷いて、着火と風避けをする私の両手に被せるように、でも決して手には触れずに、更に大きい風よけで火を包む。
 先生の口許に赤い光が見えて、私は手を下げる。
 そして同じように一本、マイルドセブンを取っては軽く唇に挟んだ。
「宮城」
 顔を上げると先生が厳ついライターの先をこちらに差し向けていた。
「ガスライターだから」
 私が煙草を加えた口許を近付けると、シュ、と勢いよく火が立ち、それに合わせて一口分だけ、息を吸う。
 口の中にはじんわりと、独特の色褪せた煙の味がした。
「ありがとな、宮城」
 先生は煙草の煙とも、氷点下世界の吐息とも取れる真っ白いものを吐き出して、薄鼠色の空に向かって、小さな声で呟いた。
 私は小さな声で、「気まぐれだよ」と返した。
 先生は少し肩を揺らして、「違うよ」と答えた。
 私が淡々と「何が?」って、聞く。
 先生はず、と鼻水を啜って、眩しそうに目を細めた。
「むかーし、さ、名前も知らないがきんちょと、こうやって煙草吸いたいって思った時があんのよ」
 私はそれに口を挟まずに、黙って苦い煙を、吸っては肺を満たし、吐き出す作業をする。
「まあ、そいつとは、ろくに話も出来なかったんだけど」
 ハァ、と宛ても無く吐かれた深くて重い白が、風の中に広がって、消える。
「俺、ずっとその事、気にしてたのかもしんねえなぁ」
 憂いに沈んだ独白に、私は踏み込んではいけないと、思った。
 そう思ったから、何も言わなかった。
 煙草の先の赤い光はあっという間に白い灰がちになる。
「だから、ありがとな、宮城」
 私はそこでやっと顔を上げて、先生を見る。
 先生は相変わらず胡散臭い微笑を浮かべていて、ただ、少しだけ明るい表情に見えた。
「ああ、思い出したよ。お前、この街を出たい、って言ってたんだっけ」
 ふ、と、急に変わった話題。私は特に気にせずに「ああ、うん」と答える。
「やっぱり東京とかだと、教員免許持ってるだけじゃ就職厳しいか」
「うん。まぁ、それもあるけど」
 私は少し言葉を濁して、なるべく適切な返答を作る。
「なんとなく、還ってきたく、なったんだ」
 薄鼠色の雲の端の方は其処だけ少し薄くて、青ではない、白いばかりの空と、広がろうとする光が覗く。
「あの時は、すごく田舎が嫌いで、都会に憧れて、でも東京を歩いたら、煩すぎて敵わない。だから、なんだか寂しくてさ。雪が降る音も、雪を踏む音も無い東京は、私には、合わなかったのかもしれない」
 淡々とした私の話を、先生は黙って聞いてくれた。
「そうか、そうか」
「うん」
「俺も、昔はこの田舎、嫌いだったわ」
「そうなんだ」
「ああでも、一回東南アジアのナントカ族の集落に飛ばされた事があって、流石にあれで懲りたね」
「……は?」
「あとは秘密」
「え」
「またそのうち教えてやるよ、宮城先生」
 先生は短くなった煙草をぽろっと地面に落として、長靴の底で踏み潰した。
 私は、ちょっと状況がわからないまま目を白黒させて、その中でかろうじて一言だけ「……携帯、灰皿」とだけ呟く。
 先生は見事に「あっ、いけね!」って慌てて、私はその大袈裟なリアクションに笑う。
 白い雪が降る街は、広がりつつある雲間の光を乱反射させて、慎み深くひっそりとした冷たい風が、相変わらずいつも通り、私の足元をかすめていった。
 ここは、よくある雪が降る街。
 これも、よくある私の話。
 だから天気図に問うんだ、今夜は吹雪ますか?

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