いっぷくさん 原案:猫春雨 著:椎名小夜子

 高校生の頃、80%の女々しさと20%の好奇心から一口吸った煙草が、あたしにとっての全ての始まり。
 それから二年半の月日をかけて成人した私だけど、銘柄は変わらない。相変わらずキャスターの5ミリ。
 あたしの処女を奪った人が僅かに開けた唇の隙間から細く長く吐き出していた白い煙は、高校生のがきんちょにはとても「大人の男」って感じの印象を植え付けて、煙を吐いたその唇でされるキスも「大人の味」のような気がした。
 大人の男が消えた後、年齢詐称して買ったキャスターの5ミリ。ちなみにボックス。
 あいつと同じ味が吸いたかった、という無意識もあったのかもしれない。だけど、煙草の銘柄なんてコンビニのカウンターの後ろにある番号数えるだけで100近くあるから、取り敢えずポカリスエットと一緒に「あと、キャスターの5ミリを2つ。ボックスで」とこなれた雰囲気だそうとして放った台詞は今思えば不審者極まりなかったのかもしれない。そんな回想はどうでもいい。
 高校生のあたしは買ったばかりの煙草を抱えて、家に帰って、ガレージの裏で一本吸った。
 肺が受け付けない煙を飲み込んだ瞬間、貧血に似た眩暈がした。それを「ヤニクラ」だと知るのはもっと後の話。
 ふんわり空中に浮いちゃったみたいな脳味噌の曖昧な指示通り、あたしは溜まった煙と体内の二酸化炭素を一緒に全部吐き出す。反射的に吸い込む冬の空気が、肺に染みるくらい冷たくて、今が冬だと思い出す。
 あたしが吐き出した煙は、ゆらゆらと揺れて、消えた。
 あの男みたいに、ふらふらと掴みきれないまま消えた。
 そしたらなんだか悔しくなって、鼻水だか涙だか吸って、フィルター直前になるまで吸い潰して、次の煙草にまた火を点ける。脳味噌がふわふわして、喉がやたら乾いて、さっきダミーにでもしようと思って買ったポカリをごくごくと飲む。足りない。何もかもが足りない。
 ニコチンによる血管収縮及び一酸化炭素による血流低下、通称ヤニクラ。
 あたしはポカリを片手に、踏み潰した煙草を前に、車酔いに似た怠さを覚える。
 朦朧とした意識の中で、煙が静かに形を作っていく様を見た。
 それはあの男と同じくらいの二十代後半くらいで、ただ静かな笑みを浮かべて、あたしを見下ろしていた。
 幻覚じみた、本当の話。
 彼はあたしの頭を、白くて薄い手の平でぽん、と、優しく触れるように、撫でた。
 その瞬間にあたしは突然蟠っていた何かが一気に込み上げてきて、ガレージの裏で声を上げて泣いた。
 彼は黙って傍にいた。
「あなたは、だあれ」
「煙の妖精」
「……変な、煙ね」
「うん、よく、言われる」
「名前は」
「ないよ」
「じゃあそうね」
 17歳の冬、陽が傾き紫がかった白い空の下、あたしは煙草の煙に、いっぷくさんと名付けた。

 あの日から、大分年月が流れた。
 あたしは大学を卒業して、なんだかんだであの時あたしを振った男と同じくらいの歳になっていた。
 周りの女の子たちや同級生は、ぽつぽつと結婚したり、その支度をし始めていた。
 あたしは相変わらず会社のビルの屋上で、キャスターの5ミリを吸って、吐く。
 いっぷくさんは一体なんなんだろう。
 出会った時はあんなに鮮明だったのに、年月と共に足元から、糸がほどけるように薄くなる。
 一時期お局さんから「みっともない」って言われて、申し訳程度にしていた禁煙が原因なのかも、思ったりもする。
 寡黙な彼は、だいぶ薄くなってしまった。
 煙草の本数を増やしても、濃くなる事は決してなかった。
「あなたがいなくなったら、さ。あたし、どうしたらいいんだろ」
 いっぷくさんはいつも通り、眉を下げて少し困ったように、笑う。
「生きていけない気すらしてる、なんて言ったら重たい? ……煙に重たいも何もないか」
 独り言に近い言葉をつらつらとならべる。
 いっぷくさんはそれを黙って聞いている。
 隣のビルに映る夕日がガラスに反射して、いっぷくさんがほんのりと優しいオレンジ色になる。
 いっぷくさんが、珍しく、ゆっくりと口を開いた。
 諭すように、ただ諭すように、言葉の端々に滲むのは恐らく、ニコチンでもタールでもない優しさ。
「キスには色んな味がある。甘いもの、それから苦いもの。煙草だって、軽いもの、重いもの、メンソール、色んな味があるよ。だから、また、色々試してごらん」
 穏やかで、安らかな笑みを浮かべたいっぷくさんはそのまま夕日の橙色に混ざって溶けて消えてしまいそうで、それほどまでに薄くなっていて、隣のビルの窓が微かに彼の向こうに見える。
「あたしは、それでもあなたがいいの」
 誰もいない屋上で、吸いかけの煙草を放りなげて、あたしは両手を伸ばして、泣き出しそうになりながら彼にキスをした。
 慣れ親しんだキャスターの味が舌の上で一瞬濃くなって、そしてゆっくりと、消えた。

【了】

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