エネルギーボールの蜜月(2/4) 森央未土

エネルギーボールが少女の姿になったことで、接し方はいままでと異なるものになった。姿形とはこれほどまでに重要なものなのだ、と僕は妙な納得をした。
第一に、彼女はエネルギー体ではあったがすでにボールではなかった。いちおう人間ということなので、名前を付けるのが良いようにも思えた。本質的にはエネルギーボールなのでかつての余韻を残しながらも、しっくりくる呼び名を考えなければならない。
長い時間考えた末、僕は彼女を〈エル〉と呼ぶことにした。〈エネルギーボール〉を縮めただけの安直なネーミングだったが、本人は気に入っている様子だった。
「エル」僕は名前を呼ぶ。
「はい」彼女が答える。
今まで球体の状態の彼女と会話をしていたにも関わらず、交わすやり取りはどれも初々しいものに思えた。僕のその感情を読み取り、エルは感情エネルギーを得る。僕が造るご飯もまた気持ちがこもっているのでおいしいものに変わった、と彼女はいう。
伸びた髪を切って整えてやる。ひとまずは僕のおさがりの服を着せ、彼女に似合う服を見繕うためファッションセンターしまむらに行く。男物を着ているため、いきなりハードルの高い店に行くのは躊躇われたのである。しまむらで服を調達してから、ファッショナブルな店に行くのが良いだろう。
しかし彼女はしまむらで服を選ぶとこれでいい、と満足したようだった。
「しまむらの服がもっともエネルギー効率がいい」と彼女はいった。地球外生命の考えることはよくわからない。
エネルギーを摂取する量が増えると、エルは電磁波的反響を強め、僕の脳をスキャンする制度を高めていった。したがって表層思考のほとんどを把握される結果となってしまった。
彼女はもともと人間ではないのだから、心を読まれるくらいは問題ではなかった。僕は構わずいつものとおり生活をした。
「最近は元気そうだな。拾った頃と比べて見違えるようだ」
本当に見違えているのだから洒落になっていない。
「そうですか。最近になって肌のつやというものを学習してきたのでそちらの再現もがんばってみようと思います」
エルは以前より学習に興味をしめし、物を探究するようになっていた。
「この恋愛感情というものをエネルギーに変えるようになってからは非常に莫大な力を得ました」
「それで問題がないならいい事だと思うよ」
「あなたとの恋愛感情はとてもおいしいですが、この感情はあらゆる人間が抱くものではない気がします。何故でしょうか」
「確かにすべての人間が抱くものではない。子供や老人は抱けないだろうな」
「性欲に伴う種の保存エネルギーでもありますが、それだけでは説明できない気もします」
「それは種の保存だけでは生きていけないからだと思う。種を保存しつつ、保存した種――つまり自分の子供、分身の面倒をみて初めて人間は生きている意味を見いだせるんだ」
「個体数が多いからなせるのですね」
身も蓋もない結論をエルは述べる。
「しかし、だからこそニューロンの発火のように個体同士の相克が生まれる」エルは個体と個体が掛け合わされることに興味を持ったようだった。
「組み合わせは無限なのに各個体がよりよい結果になろうともがいている……これは非常に興味深い」
エルは僕にゼリー状の触手を伸ばしながらぶつぶつと呟く。
彼女が別のことを考えていることに僕は不服な気持ちになる。
「……今、味が変わりました」
「それは嫉妬の味なのかもしれないな」
「嫉妬とは? 」
「なんていうのかな。妬ましいとか、羨ましいとか、自分が蔑ろにされているのはわかっていても……それでも誰かを求めざるを得ない。そんな感情の総称だと思う」
「それを私に感じているのですか」
「不服だが認めざるを得ない」
「そうですか」
エルは僕からゼリー質の触手を放し少女の肉体にしゅるりと収納する。それからわざわざ人差し指を立てて考える仕草をする。
「じゃあ、あなたからはまだまだ様々な感情が引き出せるということですね」
そうしてエルは無邪気な微笑みを見せた。
今までのようなぎこちなさのない、本心からの微笑みのように見えた。
彼女は感情エネルギーに対する食欲を主に原動力にしている。
僕は底のない、空虚なものに触れている。そんな感触を抱く。これから起こるであろう地獄の予感に僕は震えを隠せない。
その震えさえも彼女は、おいしそう、と興味を向けてくる。
エルは恋の味を占めたためか、大人のカップルに狙いを定めるようになった。かつて子供からエネルギーを得ていた時のように、若い男女からエネルギーを貰うようになった。
ショッピングモールを歩くカップルの間に眼に見えない繊維レベルの触手を伸ばす。頬や首筋などに軽く触れ感情を掬い取る。容量を間違えると彼らの感情が衰退し破局してしまうので、ほんの少しの分量だけ分けてもらう。
鳥を殺さずに卵をとるということ。
以前僕が教えたことをエルは忠実に実行し〈多くの人から少しずつ〉というルールで食欲を満たしていく。
「ほんの少しだけ貰うとは言ったけど、少しで足りるものなのか」
ふと疑問に思い僕は尋ねた。
「私の隣には無限とも思えるエネルギー源があります」
「隣には僕しかいない」
「恋愛感情というものは連鎖的です。二人の間で完結しているようでいて実はそうではない」
「僕の嫉妬を食べているということ? 」
「まあ、そういうことになりますね」
隣を歩いている美しい少女が、僕ではない誰かに感情を向けている。確かにその事実に対して、僕は張り裂けそうな思いを抱いていた。心臓がきりきり痛んでいる。そのことはエルには隠していたはずだったが筒抜けだったようだ。
「それも見越していたってことなのか」
「というか元々そういう目的でしたし」
「口に出してしまうと僕の方でも対策を考えるようになるぜ」
「あくまで私が食べる主体はあなたの感情ですから、そうなれば別の手段を考えます」
エルは僕の眼をみていった。
「あくまで主体が僕でいてくれることを祈るよ」
「嫉妬のメカニズムは、感情を受け取る主体が、主体でなくなるか否かのせめぎ合いにあります。したがってあなたの主張は了承しかねます」
少女は僕から一歩距離を置く。僕は無関心を装い、離れたまま歩く。ショッピングモールの人波に飲み込まれる。
険悪な雰囲気もすぐに終わりを迎える。彼女は華奢な身体をしているためかタイムセール時のおばちゃんの群れに押し流されてしまったのだ。
しだいに彼女の姿が見えなくなる。背伸びをして探すと、生鮮食品のコーナーまで押し流されているのがみえた。
身長がある僕でやっとみえるくらいだから、彼女の方では完全に見失ってしまっているだろう。
迎えにいくと彼女は体育座りをしてうずくまっていた。ひどく不服そうに頬をふくらましている。
「離れたくらいでそんなに怒るなよ」
軽く話し掛けたつもりだが返事がない。エルはうずくまったまま、お腹を押さえている。
「う、ううう」
「大丈夫か?」
えずきながら体を折り曲げて彼女は喉を突きだしている。背中をさするも容体はよくならない。
何かを吐き出そうとしているということだけがわかる。
「ゔ、ゔえええ」
そして予想をしていたとおり、彼女は嘔吐してしまう。
僕は着ていたTシャツで彼女の吐しゃ物を受け止める。
彼女が吐き出したものは、やはり人間の消化液ではなく、黄緑色の、ゼリー状のエネルギー体だった。
いつものように彼女の実体に〈巻き戻る〉ことはなく、外に排出されたままになっている。
吐しゃ物はTシャツに収まり切らないほど溢れ、食品館の床に水たまりのようにこぼれた。
「エル! 大丈夫か! エル…… 」
「大丈夫ですよ」
彼女が答えると僕は少しだけ安堵する。
「今は、安静にしてな。何もしゃべらなくていい」
僕はタブレットフォンを操作し医者を呼ぼうとする。すぐに冷静になり彼女を医者に渡したら大変なことになると思い至る。
「私は人間ではないのでお医者様を呼んでも意味はありませんよ」
「……そうだったな」
「命に別状はありませんので。今はそっとしておいてください」
「わかったよ」
僕は店の人に謝罪をし、掃除をしてもらうことにした。店員は始めゼリー状の吐しゃ物を見て怪訝な顔をしていたが、僕が「最新の病気の治療で特殊な食べ物を食べている」と説明すると、納得したそぶりをみせた。
一通りの後始末を終えてショッピングモールを出るとエルは神妙な顔で謝罪をした。
「ごめんなさい」
「仕方ないよ。具合が悪くなることは誰にでもある」
思えば初めて出会った時から彼女は衰弱していたのだ。いくらエネルギーボールという生命を超えた存在であっても、弱ることはある。
「私は自分のしたことの報いを受けたのでしょう」
「あんまり、報いとか、重く考えない方がいい。ただ弱ったら嘔吐する。それでいいと思う」
「いいえ。嫉妬だとか、重い感情ばかりを食べすぎたために苦しむ羽目になったのです。これは反省しなければいけません」
「まるで毎日牛丼を食べたから、病気になった、みたいな物言いだな」
僕が思うほど彼女は弱っているわけではないようだった。
「これからは人間の感情だけでなく普通の食べ物も摂取することにします」
栄養の取り方が過剰だったのだと彼女は反省する。あまりに隔たった感情ばかり食べていたから、肉体が受け止めきれなかったのだという。
「確かに嫉妬ばかり受け止めてしまったんじゃ嘔吐もするよなあ」
彼女の生態は食欲と感情が一体化している。付き合っていくならこの圧倒的な違いについて気に留めなければいけないだろう。
「しかし、私の嘔吐を受け入れてくれたのは、ありがとうございます」
エルの方を見やると、頬を赤らめていた。口元には先ほど吐いたゼリー状の吐しゃ物が残っている。
「口に付いてるぞ」
「拭ってください」
僕は彼女に口づけをし、吐しゃ物を食べる。彼女の一部が僕の体内に入っていく。ゼリー状のものは存外に甘く、食べられないことはなかった
「エネルギー、をアリガトウ……」
エルはさらに顔全体を真っ赤にして、身体を強張らせる。本当、この少女はどこでどうなるかわかったものではない。わからないからこそうまくいっているのかもしれない。
ゼリー状のものが胃袋に流れ込んでくる。
「エルの一部が僕の一部になっている」
僕がいうとエルは恥ずかしがりながらも
「温かい感情が流れ込んでくる」
といった。

その日もエルをつれて、栄養をとるためにスーパーに買い出しにでていた。食材を選んでいるとふと懐かしい姿が視界を掠める。
前方からカートを押して女性が歩いてくる。明るめの茶髪をショートカットに揃えている。胸元には抱っこ紐が縛られており、彼女の子供であろう乳児がすやすやと眠っている。生鮮食品の棚をながめ、発泡スチロールに梱包されたものをカートに入れる。
僕はその人物がユリという名前の高校の同級生だということに思い至る。
所謂、僕の初恋の人物でもある。
今となっては当時の感覚を忘れている。そう思い込もうとしたが、僕は動揺を隠せずに俯いた。
視線を下に向けながら僕はエルの手を握る。
ユリは僕に気づくことなく乳児をあやしながらカートを押して通り過ぎて行った。
「どうしてコミュニケーションをしないのですか」
萎縮する僕をみてエルが訪ねた。
「とりたてた接点がないからだよ」
「でもあなたは脈拍が上がっているようにみえます。そういう間柄だったと推測できます。脳内でも過去の想像が焼き付いているようです」
「片思いをしていただけだよ。何も関係性がなくても人間は勝手に狂うことができるものさ」
僕は買い物カートを押しながら、「何を食べたい?」と尋ねる。
「おすしが食べたいです」
「今日は、やたらと困らせることをいうなあ」
明日の朝用の食事を買い込み、スーパーを後にする。おばちゃんの惣菜だけではエルの感情形成が偏るのでベーカリーのパンも大量に買い込む。そのベーカリーではおじさんが主にパンを焼いている。
スーパーを後にし、回転寿司の店に向かう。地方都市のショッピングモールは店が密集しているから移動がしやすい。
「間違えました。私は回らないおすしが食べたいです」
車を止めようとすると、エルが抗議の声をあげた。
「そうかあ。そういう意味だったのかあ」
「あなたの頭の中には回転するお寿司の残酷な光景が浮かんでいます。それは主に、資本的な輪廻によるもの。冷めたぬるい汁で客の回転を早め、廃棄物を加工し寿司とのたまう。そのような食べ物では私は満たされません」
「いちおう回転寿司だって職人さんが握ってるんだよ」
「それでは、訂正します。私は、極上の職人の頑固さ、それでいて決して曲がりえない純粋な職への思いの込められた板前寿司が食べたいです」
彼女の内面はしだいに複雑化し、食べ物にも魂を見出す様になってしまった。
手を込めた料理の記憶が感情エネルギーに変換されるため、よりお腹が膨れるのだという。工場生産品ではいまいち感情の鮮度がなく、訴えかけるものがないらしい。
その代わりお金が無い時でも、僕が手料理をする限り、おいしいとはいかないまでも『お腹が膨れる』と言ってくれるので悪い気はしない。
つまり感情エネルギーを摂取するにあたって、味にうるさくなったというわけだ。それが喜ばしい事なのかはわからない。
先日、嫉妬を食べすぎて嘔吐したというのに彼女の食についての探究は深まるばかりだ。あるいは一度ダメージを受けたことでダメージの受け取り方を学び、趣向が広がったのかもしれない。
「わかったよ。今日は本当のお寿司だ」
僕は観念してお寿司を認めることにした。
バイトをしていた時の貯金が残っていたのでそれを崩せばいいだろう。僕は資産を裂くことなどなんとも思わないくらい彼女に溺れていた。
お寿司を食べ、自室に戻ると少女はパジャマに着替えて僕の傍らにそっとよりそう。明かりをけすと、月のおぼろげな光がカーテンの隙間から零れ、夜の闇を溶かしている。
「お寿司美味しかったです」
「ぜいたくな女の子だな」
「実は今日のはただの嫉妬です。本当はもっと我慢強いです」
気付かなかったがどうやら嫉妬であるという。いきなりそんなことを言われて、僕は面食らった。
「もしかして同級生にやきもちを焼いているのか」
僕が茶化すと少女は鋭利に眼を細める。
隣に近づいてくる。僕はその接近にたじろぎ距離をとる。
距離をとった分だけ彼女はつめよってくる。やがて、ベットの端に追い詰められ顔が近づいてくる。
彼女の唇は僕の頬に触れる距離まで近づき、ふれることなく素通りする。
耳元に息がふきかかる距離で彼女はささやく。
「口では忘れたと言っても、あの女のことを考えていたでしょう。こう考えていたのではなかったですか?
『今ならある程度会話できる技術があるから声をかければ良かったのかもしれない』
『高校生の時もっと話していたら今頃は近い関係になっていたかもしれない』あなたの心からはそんな、様々なビジョンが流れてきました。つまりあなた
は、あの女を欲しいと考えていたのでしょう」
僕は冷静に少女が何を考えているかについて思いを巡らせる。嫉妬しているとエルは言ったが、その矛先はユリに向けられたものではないだろう。何故ならば彼女は僕の同級生でしかなく、僕が一方的に片思いしていたにすぎない。そうした関係性の希薄さを理解できないほど、エルは未熟ではなない。
つまり僕の心の中にエル以外の関心があることが気に食わないのだ。
僕には嫉妬をするように仕向け、エネルギーを摂取していたくせに、自分が嫉妬をするとなると抗議をしてくるのは理不尽極まりない。
「別に考えるなとは言ってません。私は欲しいものを言ってくれなかったことが残念だったのです」
「いまいち言っている意味がわからない」
「あの女が欲しいなら私に言ってくれればいいのです」
「ますます意味がわからない。誘拐でもするのか」
僕が的外れなことをいったためか、エルはため息をつき、飽きれた、という表情をした。そこには『仕方ないなあ』という憐みも含まれているようでもあった。
「あなたは、私を救いだし熱量を与えてくれました。できる限りのことはお返しできると言いたいのです」
「何をしてくれるっていうんだい。君は何をしても面白いから、何でもかまわないのだけど」
「人間が欲しいくらいなら、すぐにどうにでもなるということです」
それからエルは服を脱ぎだし
「はずかしいのであっちを向いていてください」
そう言いながら堂々と正面を向いてくる。
しまむらで買ったブラジャー。その上からはふくらみかけた乳房が窺える。しぶしぶ言うとおりにして僕は後ろを向く。
彼女とは逆の方向を向いていると、ぼじゅぼじゅと何かがはぜたり収縮したりする音が聞こえる。好奇心に負けそうになるが僕は見ないように努める。
「いいですよ」
言われて振り向くと、少女の隣にはもう一人の別の女性が座っていた。
「できるかどうか不安だったのですが造ってしまいました」
その女性は買い物の時すれ違った同級生のユリだった。
エルは女性の肩に腕を回し寄っている。
「現実の他者を複製しながら、意志らしきものを入れるのは大変でした。
これは私の分岐物だけど、あの女性の姿を私が真似しているというだけだから、あなたは緊張することはない。安心していつもどおり振る舞えばいい」
エルが言うと横の女性も口を開く。
『趣味や嗜好は似ていると思うの。仕草なども完璧にトレースしたから。けれど魂までは、不可能だった。人間はすごした時間という制約がある。この世に生きている限り、今の時間は一回きりだから、過去から現在への時間によって形作られた精神は再現などできない。
ただやはりあの女性の頭から読み取った限り、やはりあなたの記憶というものはなかった』
ユリの身体をしたエル(の分岐物)が淡々と告げる。
(かつて好きだった女性の中に僕の記憶はかけらほども存在しない)
僕は彼女が述べた言葉の意味を反芻する。
話しているのがエルとわかってはいても、肺を貫かれるような痛みが走る。
本人と同じ姿に言われているからショックは大きいものになるのだろう。エルから生まれた複製物なのだから、と僕は自分に言い聞かせる。
「この人の心をある程度読みとったので、きっと本心だと思います。ユリさんの中にあなたの記憶はかけらほども存在しない」
エルがユリの複製物に腕を回しながら言った。
「高校生のときのあなたは内気な存在だったみたいですね。ユリという人間にはあなたは目立たない性格の暗い人間として映っていたそうです。残念ですね」
僕は反論せずにエルの講釈を聞き流す。やれやれ、とさえ思う。
エルは僕を試しているのだろう。僕の心が乱れそうなことをわざとやってのけて感情が動くのを楽しんでいるのだ。だがここで乱されてしまっては、僕のエルに対する気持ちが半端なものだったということになる。
今、僕の心に住まわっているのはかつて身勝手な片思いをした相手ではなく、偶然出会ったエルという少女なのだ。その少女がどこか遠くから飛来したエネルギーボールだったとして、何が問題なのだろう。
「この女性を作った技術はすごいと思う。けれど消してくれないか」
僕はエルに伝える。
「いいのですか? 」
「ああ。どうせ僕にとって価値のあるものではないんだ。これはいわば銅像のようなものでさ。今になって思うが、僕は、この子に恋をしていたにも関わらず、もともと彼女の内面は最低だと思っていたんだ」
ユリ(の複製物)に触れる。かつてあれほど心の底から望み、叶わなかったものに触れている。
だがこれはエルの一部なのだ。
僕はユリを手に入れたいわけではない。
目の前の人形を愛することは、エルを愛しながら心を遠くに向けることになる。
ここで僕は一つの疑問に出くわした。
エルの肉体とはどこからどこまでが彼女なのだろうか、という問題だ。
このユリの姿をした肉体もまたエルの延長線上にあるのだとしたら、このユリの肉体を愛でることはエルを愛でることになりはしないだろうか?
同時に、ユリの肉体を愛でながらエルの現在の肉体を否定するということに繋がる。
僕はそれらの推測をエルに話した。するとエルは
「そうですよ」
と臆面もなく肯定する。
「それでも、愛してくれて構わないのですよ。あなたの片思いがぐちゃぐちゃに発露するのを見るのも、おもしろそうですから」
「君もひどく性格が悪い」
「人間ではないですから」
「そうだったな」
僕はエルの延長物であるユリの肉体から手を離す。
「いらないのですか」
「それでも僕はこの肉体に触れたくはないよ。何故かというと、人間の領分では処理しきれないからだ。僕は僕の裁量をもってしかエルを愛することはできない。仮にこのユリ―――過去に片思いをしていた女性が、今僕の側にいるエルの肉体の延長物であるという馬鹿げた事実があるにせよ、エルがユリであり、ユリはエルに包括されている形だから、ユリを抱いてもいいという結論になったとしても、僕はユリの姿の肉体を抱くことはできない。それがエルの精神だとしてもだ。
何故なら、僕にとってのエルを表すものは、今、目の前にいる君のみだからだ。君が、今までその姿形でエルとして存在してきた以上、僕にとってエルは君でしかないし、つまり目の前にいる華奢な女の子だけが僕にとってのエルなんだ。つまり僕はエルを裏切るようなことをしたくない」
エルはひどく面食らった表情で僕をみていた。僕は多少熱くなりながらも、どうにかしてこのもどかしい感情をエルに伝えようとした。
人外であるエルにこの理屈が通じるかどうかはわからなかったが、僕にはエルはエルでしかないということしか、思い浮かばなかった。
彼女の唯一性を僕が保障しなければ、このまま彼女が唯一性を損なわせてしまうような予感があった。
彼女は彼女でしかない。だから大事である。
エルは大人の容姿をしても、根本的に大切な価値観が抜け落ちていた。だからこそ僕は悲しくなってしまった。気づけば涙がこぼれていた。僕はエルが消滅してしまう感触さえ感じていたのだ。
「ふふ」
「どうかしたのか? 」
「いえ、でもなんか私、嬉しくって。お腹いっぱいで幸せで飛んでしまいたいくらい」
「どうしてそう思う? 」
「だってあまりに真っ直ぐなんだから」
唯一性については理解しました、とエルはそっけなくいう。
「それにあなたは、片思いだった同級生よりも私を優先してくれているでしょう」
「そうだよ」
「そしたら私は、嫉妬していたんだってことに気づいたんです」
「いまさらなのか」
「今まで抱いていたどうにもならない嫉妬から解放されたことを、本当に心の底から確信したんですよ。これは素敵なカタルシスです!」
エルはそのときの僕の感情の発露が「すばらしい養分になった」といった。
「そうなのかな。わからない。けれどもうどうしようもないんだ。僕とユリの間には接点はなかったし、記憶の繋がりもない。同じ空間にいたのに声ももうおぼろげだ。大人になった今では好きになりようがない」
僕は拍子抜けして、エルが好きであるということではなく、かつて好意を抱いていたユリに対して無関心であるということをいってごまかす。
「それはいいことです。とってもとってもいいことです」
エルは奇妙なくらいに機嫌がよかった。
僕は本当は彼女の唯一性について、話をしたかった。
誰かを唯一に思う気持ちこそがよりよい感情エネルギーになるのではないのか?
「それに良い事も思いついたんです」
「いいことが何なのかはよくわからないけど、でも立て続けに物事が運ぶのは悪い事ではない」
「ええ。本当に」
「いい事ってどんな? 」
『カタルシスが重なることです』
エルの声色が変化する。
さきほど僕が否定したユリのものに変わる。
「どうですか? 」
「……何をしている」
エルは先ほど作り出したユリ(の姿をしたもの)の中に心を移しているようだった。
その代わりにエルだった少女の肉体は、だらりと腕をぶらさげて、床に倒れ込む。
「あなたがかつて好きだった存在に、私を入れてみただけです。これであなたはどのような感情を抱くのでしょうか」
エルはユリの姿で、指先から極小の触手を伸ばし、僕のおでこに触れる。触手は感触を感じさせることなく僕のおでこに接続される。
「……どうして、そんなことをする」
「いったでしょう。さっきのカタルシスをもう一度味わうためです」
エルは自らが得た感触を滔々と説明した。
「あなたにまつわる嫉妬から解放されたとき、とてもすがすがしい気持ちになりました。けれどすぐに、この感情がまた生まれればいいと思ったのです。この感情エネルギーはすばらしいからまた味わいたい。だから自分で作り出すにはどうすればいいのか、と考えたのです」
「だから、それが、どうして?! 」
「あなたが大切にしている唯一性とやらは私には問題ではありません」
エルはいくつかの提案を始める。
「もしもこの同級生の肉体を用いて擬似的な結婚生活を送るとしたらあなたはどうなるでしょうか。あるいは私が器として用いていたこの身体を、もっとあなた好みに作り替えて言ったらどうなるでしょうか。きっとあなたからはまだまだ様々な気持ちの揺らぎが取りだせるに違いありません」
エルは心地よさそうに話を進めている。
僕はそうなった事態の問題について考える。エルは複数の肉体を造るのだから、複数の精神を用いることになる。一つの肉体は基本的に心を一つしかもてない。
「君の心はどうなる? 」
「私は複数の肉体に自分の心を入れることができるようです」
『そうなんです』
だらりと弛緩していた少女―――エルの肉体だったものが立ちあがった。
同級生の女性と少女が僕と向かいあう。
僕は何もかもがわからなくなってしまい、叫びだしたい衝動に駆られる。
僕はエルの肉体を大切にすることが、彼女の唯一性を大切にすることが、彼女を愛する方法だと考えていた。
しかしエルにとって唯一性は問題ではなく、僕の感情をないがしろにする方がよりすばらしいことらしい。
人間とそうでないものの違い。
瞼の奥ががんがんと痛む。身体のあらゆる神経が鈍痛を訴えている。気づけば床に膝を付けていた。立ち上がることができない。
少女の温度のない瞳が僕を見下ろしている。僕がエルと呼んでいた少女。しかし彼女はエルであってエルではないようだ。では彼女は誰なのだろう?
僕は確かにエルという少女と過ごしてきた。
それは幻だったのだろうか。
彼女にとってはやはり養分を摂取することにすぎなかったのだろうか。
脳が
泡立つ
頭が
割れる。
心臓が痛い。
心に連動して神経はひび割れる。
瞼の裏側が滲み、自分が狂っていく音を聞いた。耳の奥で破砕音がなる。ひび割れたガラスを砕くような音だ。一回軋むごとにロシアンルーレットのように砕け散る恐怖を連想させる。心が折れるとはこういうことをいうのだな、と僕は受け入れ始める。
「―――もちろん、冗談ですよ」
やたら優しい声音が、耳の奥の破砕音を止めてくれた。
言葉を理解するのに数秒を要する。その数秒の間に頭の奥のひび割れも収まっていく。
エルは彼女自身の肉体に戻り、舌を出していた。
「あなたが狂ってしまうようなことはしませんよ。先ほどあなたはいいました。『人間は人間でないものを受け入れることはできない』」
気付けば僕はひどい呼吸をしながら、彼女の胸に顔を埋めていた。ユリのふくよかなものではない。元のエルの未発達な胸に。
「君だって一度、嫉妬で嘔吐したくせに」
かろうじてそれだけ言い返す。縋るように彼女を抱いているためか声がくぐもっている。触れている限りはやはり、人間の、生命の肉の感触をしている。
いっそのことエネルギーボールのままでいてくれたら良かったとさえ思う。エルはエルになることはなく、お互いに人間と球体という関係性に収まっていられたらこんなにも苦しくなることはなかった。
「あの嘔吐は通過儀礼だったと考えるべきです。普通の食事と感情を食べることは相互に干渉しあっている。お酒ばかり飲んでいると水が恋しくなるようなものです」
「あやうく狂ってしまうところだったよ」
ひとまず呼吸を落ち着けて僕は彼女を不安にさせないように軽口を叩く。頬に冷や汗が流れる。
ユリの肉体は数分経つとゼリー状に融解し、エルの本体(便宜上そう呼ぶ)の少女に回収される。
その様子を見ながらやはりエルのいったことは夢ではなかったんだと再認識する。
喉の奥から込み上げてくるものがある。
安心し体が緩んだためだろうか。吐くっ、と理解したときにはすでに制御できないところまで込み上げてきていた。
そうして僕は嘔吐してしまう。
エルのものとは異なる、臭くて汚い黄土色の吐しゃ物が零れる。胃液の酸っぱい匂いが立ち込める。
どうして人間はこんなに汚いのだろう。彼女ほどではないにせよ、もう少しエネルギー体の要素があっても良いのではないか。
鼻先に柔らかい感触が触れる。エルが僕の吐しゃ物を受け止めているのだ。
「ひふぁふぁいだろ」
僕は申し訳なくなって彼女から離れようとするが、がっちりと引き寄せられる。なすがままに僕はエルに抱かれる。
「前と、おあいこですよ」
少女は僕の吐しゃ物を舌で掬い取り、嚥下する。
「嘔吐物にも感情の味があるのですね。駄目な感情を食べるというのも可愛いものです」
「なあ……本当に君は君ではないのか」
「いいえ。私は、私ですよ。ただあなたのような人間の価値観に縛られるのが嫌だったから、ちょっと脅しただけです」
彼女は料理の味についての話をするような口調で冷徹な内容をつきつけた。
僕はゼロ距離で密着しながら、彼女との距離を感じている。
「私には私なりの唯一性があるといいたかったのです……。しかし、発狂寸前まで追い込んで、ごめんなさい」
華奢な身体で頭を下げる。それをみて僕は申し訳ない気持ちになる。
冷徹だと思ってしまうのは価値観の違いなのだろう。おそらくエルは温かな心をしている。温もりがあっても曲げられない事実というものは存在する。その事実が僕と彼女にとっての距離になるということなのだろう。
「ああ……いいよ。僕は大丈夫だ」
答えると、エルはありがとう、といってはにかむ。
その様子を眺めながら、ぼんやりと浮かんでくる言葉がある。
エルはもはや僕では手におえないのではないのか? もしかしたら、彼女が成長していくことは、人間の概念をたやすく超えてしまうことを意味するのではないか?
エネルギーボールから少女になる過程をみてきたからこそわかる。
エネルギーボールとは実体に縛られない存在だった。肉体という枷を持たない概念体だった。
生物を超越した存在だ。その事実に僕は畏怖の念を抱いてしまっている。
それでもエルはエルの姿を選択した。それは僕が以前彼女に感じた〈人間よりも人間らしい部分〉のように思えた。
「君には君の価値観がある」
「はい」
「それなら僕は適切な距離感を育みたいと思うよ」
「適切な距離感、とは」
「縛りとかではないんだ。ただ君は気の向くままにいればいいってことだよ」
態度だけでも対等でありたいと願うのは、彼女に対して恋愛感情を抱いているからなのだろう。
「いわれなくても、私は唯一性を曲げるつもりはありません」
「わかってるからあえて言ったんだよ」
「何があえてなのかもわかりません……」
「じゃあそれでもいいや」
不遜ですらあることもわかっている。それでも彼女が少女の姿をし、言葉を交わしてくれる限りは、この感情は拭いようがないのだと思う。
羊水のような温かい泉で溺れている。
呼吸ができない状態でなお、甘い心地よさに魅入られている。

 

続く

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