エネルギーボールの蜜月(4/4) 森央未土

月明かりが夜の寝室を照らしている。
布団を並べた部屋で僕はエルとくっついて眠っている。肌のミルクに似た匂いが鼻先をくすぐる。そのたびに僕は子供の頃の感覚を思い起こす。母親の胸に抱かれているというよりは、小さい頃から一緒にいる兄妹の距離感に似ていた。過去を懐かしめるほどの時間、彼女と一緒の時間を過ごしていた。
「あの」
「どうした?」
「いいにくいことなのだけど」
その声には悩みを打ち明けるときのように不安が滲んでいる。
「うん」
「そのときがきました」
エルは気まずい思いを抱いているのか背中を向けたまま話す。
その一言で僕はすべてを理解する。
「うん……」
眠い目を擦りながら、返す言葉を探しあぐねた。
「今?」
「今でなくても。いつでもいい」
「いつ行くかは君が決めることだよ」
「そういうのは、ちょっとずるいです」
「確かに、君だけの問題のようで僕の問題でもある」
狡さを肯定しながら僕は、そこまで強い人間でもないことを述べる。するとエルは「甲斐性なし」と反撃してくる。
「とりあえず、行くってことにして。実際に未練があったら留まればいい」
「そうですね」
二人でサンダルをつっかけて外にでる。足並みはいつもと変わらない。焦りも躊躇いも感じられないのは、あえて平常心のままでいるためだろうか。
住んでいる部屋を出て、並んで歩く。舗装されたりんごの並木道が懐かしく感じられる。僕は小さな子供の頃から、何度もこの道を通ったことを思い出している。エルとの思い出なんかもあるような気がしてくる。例えば並木道の一メートルほどの水路を飛び越えて遊んだことや、田んぼのあぜ道を自転車で突っ切っていたことなどを。
もちろん、過去の記憶の連なりにはエルは存在しない。そのはずなのに、彼女の姿はまるで生まれた時からこの場所で育ったように、溶け込んでいた。
何かが終わろうとするとき、終わろうとするものを心にとどめるために、瞼の内側で強く焼き付けられる。
消える一瞬を前にしたときの保存欲求に似ている。
カウントダウンに抗おうとしている。
肉体が死を迎えるわけではない。しかし、僕を構成する要素としてのエルが離れようとしている。それほどまでにエルは僕の内奥に根付いているのだろう。
「どこに向かってる?」
「出会った場所から飛び立つほうが、ロマンがある気がしません? 」
エルは振り向いて、後ろ向きに歩きながら、不敵な笑みを浮かべる。
「それは違いないな」
素直に同意する。些細な共感でさえ今はうれしく思う。
エルとは関係の終わりの瞬間まで通じ合っていたい。限られた時間における幸福でしかないとしても、この気持ちに偽りはない。
気付けば僕はエルの手をとっている。エルも小さな手をぎゅっと握り返してくる。
特に気の利いた会話をすることもなく、いつもどおりのペースで目的の場所にたどり着いてしまう。
彼女と初めて会った、実家の庭先。
両親は眠っているのか家の明かりは消えている。隠れて悪事をしているような気持ちになる。
いたずらをする気持ちと、どこかへ脱出するときの心臓の鼓動はとてもいいものだ。
そんなことを考えながら、僕は庭の堀に腰掛けエルを見守ることにする。
「初めても、いいのかな」
「大丈夫だよ。周囲に人はいないみたいだ」
「見られて減るものではないですが……」
「僕ら以外の誰かがいたら、お帰りになってもらうよ。大切な門出だからな」
「それじゃあ、そのときはお願いしまう」
「ああ。任せられた」
エルは僕に念を押してから庭先に埋めた〈余剰の器〉を取出しにかかる。以前公園に埋めていたときの濃縮されたエネルギー体である。
遠くからも光の球が黄緑色の尾を引いて彼女の周辺に集まってくる。この町にはエルから分離したエネルギーの器がいたるところに埋められているのだろう。これらの珠がすべて合わさると、エルはエルの肉体を構成できずに膨れ上がってしまうと以前聞いたことがある。
逆を言えば、エルとしての形状を保てなくなるほどのエネルギーが飛び立つのに必要ということでもある。
エルは集まったエネルギーを周囲に展開しながら、服を脱ぎ始める。
「持っててください」
僕に服を放り、一糸まとわぬ姿になる。服はファッションセンターしまむらで買った、いささかガーリッシュすぎるデザインのもので、やはり彼女によく似合っていた。
全裸のエルは素肌に電気のようなものをまとう。初めて会ったときより少しだけ膨らんだおっぱいの先端に光が灯る。
その電流に呼応して 光球は形を変え、彼女の身体に接続する。
『器』と呼ばれた光球は彼女の身体の一部としてとけていく。容量以上になった身体が膨れ上がり背中から瘤が生まれる。
エネルギーが飽和しているのだ。
始めは歪だった隆起は、羽化をするように背中を突き破り、翅の形状となって上方に閃く。
肩口から翅を伸ばした状態で、彼女は体重を支えきれず膝をつく。
今度は光球を膝に当てる。足だったものが膨張し、またも肢が翅状に変わる。不安定な姿勢であったが、翅は彼女の身体にくらべてとても大きいためか、バランスを崩すことはない。
エルは次々に光球を身体に接続していく。質量ぎりぎりまで圧縮したエネルギーを、空を飛ぶための適切な形状に変えて身にまとう。そのたびに彼女の原型は作りかえられてゆく。僕がエルとして認識していた人間の容は原型ではなかったのだ、と思い知らされる。
翅は彼女の身体と比べて著しく長く、家の屋根ほどまで達した。螺旋形に衣で包むように彼女を覆っていく。襞や、葉脈のような線が走り、生々しい外殻を構成している。重力に抗い突き抜けるための装置なのだろう。
最終的に巻貝のような形状に落ち着き、先端は上空を向いている。
『人間体のままで帰れたらよかったのですけど』
殻の中では彼女のくぐもった声が響いていた。
「君が好きなようにしてくれるのを見るのが、幸せなんだ」
『でもこの姿を見られるのは、何故か恥ずかしいです』
僕は巨大な翅の螺旋にそっと触れる。
すると翅の層が解れ、中からエルが顔を出す。人間体に纏うという形状を選んだせいか、宇宙船のコクピットに乗っているようでもある。
「出発の時は、こういった翅に包まる形になります」
「いまでも……もう飛び立てるのか」
「はい。問題はなさそうです」
「飛び立ったら長いのか」
「あなたが感じる永遠の間です」
「本当に途方もない時間なんだな」
「はい。そしてその時は私の……エルという人格性も、永遠に飲み込まれて消滅します」
それは彼女自身の死を意味するわけではないのだろう。エルという人格性の方がエネルギー生命にとってのイレギュラーなのだ。そのことに僕も彼女自身も気づいている。エルという人格性が消滅しても、エネルギー生命という括りは消滅しない。
「離れたくないと思っているよ」
「そう……ですか」
僕の言葉を受けてエルは逡巡する。そっけない返事を貰うのかとも思ったが、彼女なりの躊躇いもあるようだった。
「今日連れ出したことには理由があるのだろう」
尋ねるとエルはコクピットの中で微かに頷いていた。
「どのように別れるべきかを考えていました」
エルはいくつかの僕と別れるプランを話し始める。
何も言わずに出ていく。既に飛び立てることを説明し、余生を過ごす様に期間を決めて生活を続ける。あるいは僕が寿命を迎えるまで一緒にいて、僕の死を見届けてから空に飛び立つ。
エルとしては三番目の『僕の寿命を待つ』という方法が良さそうだという。しかしそれは僕の望むところではない。
僕が死んでからも彼女には、無限ともいえる余生が存在する。そのことを想いながら暮らし続けるのは耐えがたいことだった。
「さらに別の提案がある」
「なんですか? 」
「『僕を一緒に連れて行く』」
以前、断られた意見を僕はもう一度差し出してみる。
「それこそ、最も不毛なことです」
「不毛……なのかな 」
「はい。繋がるものなしに宇宙空間を飛び続けることに心は耐えられないでしょう。エネルギー体としての私は死にませんが、エルとしての私の人格は摩耗していきます」
「だったら尚更、僕は君を引き止めなきゃならない」
「いつまで? 」
エルは身を乗り出し、裸のまま、巻貝の宇宙船(便宜上そう呼ぶ)に腰かける。
「私に寿命はありません。あなたとは違って、地球にいて模倣できるものがあるかぎり、私の心は死なないのです。それは、あなたと一緒にいる限り互いの関係性は歪になることを意味します」
「それでも君をこの宇宙船に乗せることは、君の死を意味する」
「それでいいのです」
「君は、死にたいのか」
「もともと私の心など、エネルギーを回収するための方便にすぎません。たまたま感情が良いエネルギーになっただけで……人型としての私はそのための装置にすぎないわけで……だからいつかは終わりがくるのです」
「自分で自分に枷を嵌めているようなものじゃないのかよ」
「私はエネルギー生命ですよ。あまり人間の理屈を押し付けないでいただきたい」
エルは話してから一瞬目を見開き「しまった」という表情をしたが、すぐに平静を保つ。
僕は彼女の表情の変化を見逃さない。
沈黙が降りる。
「折衷案としてエルの人格を担う部分だけ地球に置いておくことはできないのか」
「私の核となる魂は一つしかありません」本体が飛び去ってしまうと他のエネルギー体もまた一緒に飛び去らなければならないようだた。
エルは『近いうちに飛び立つ』という意見を曲げなかった。それが互いの人間の部分を尊重する最も良い方法なのだという。
「そうか」
僕は納得できない状態であったが、なすすべがないので頷くことしかできない。
「はい」
「それでも」
沈黙を埋めたかった。
「……僕は、君のことが好きだ」
しみったれた空気のままにしたくなかった。
僕はひどい甘ったれなのだろう。喉の辺りがえづいて、声が滲んでしまう。
「私も、あなたのことは大好きです」
彼女もまた、僕に充てられたのか、ゼリー状の涙を流す。
幾度となく交わした心の伝達。
虚しいとさえ思えるほどの意志の交換。
彼女にとっては生存戦略にすぎない声の往還。
けれど、それは人間も同じではないのだろうか。
すべての感情は生存戦略の一部で、やり取りがとりとめのないものだと錯覚できるからこそ、固有のものとして僕らは認識するのではないだろうか?
エルは当たり前のことを(生存戦略としてのコミュニケーションを)当たり前のものと口にしていただけではなかっただろうか。
僕は訊ねない。尋ねたところで彼女は、そっけない答えをするだけなのだろう。そしてそっけない答えは彼女の本心ではないことを僕は知っている。
「だからこそ、あなたにはやり直してほしい」
いつまでも声を通わせられる距離でいたかった。そうした僕の思いもエルは断ち切ってくれる。
心の準備もないままの急な別れになってしまった。だが永遠の別れと知りながら、先延ばしにする方が辛いのだろう。
今出発するのが最も痛みを伴わずに別れることができるのだろう。
「君の自我はどれくらいで崩壊する?」
「人間の寿命と同じくらいですね」
「それは大変そうだな。祈ることにするよ」
「そうしてもらえると助かります」
二人で朝焼けを見るまで一緒にいることにした。
巻貝の宇宙船からエルをひぱりだし、服を着せる。両親に見つかるかもしれない恐れがあったが構わない。
出会ってから今までのことを話した。あのとき、実はこんなことを考えていたんだ。実は、そうだったんだ。気を使っていたわけではないのだけど。感情表現が不器用だったんだね。
ふしゃ。声と草の揺れる音がする。
闇に溶けたシルエット。猫だ。猫が夜の庭に忍び込んでいる。その瞳がエルの纏う巻貝の宇宙船の光を受けている。
僕は偶然持っていたチーカマを猫に投げてやる。始めは警戒していたようだったが、猫はチーカマを咥え僕らからさらに1メートルほど離れ食べ始める。
エルと過ごしている時間の中でも猫と出会ったことは何度もあった。初めて猫に餌をあげた時、エルは「私にもこんな感じで食べ物をあげたのですね」と感心していた。
「しかし、別れるときまで猫に恵まれるのは、運がいいんだか、悪いんだか」
「猫男なんだ」
「雨男っていうよりも可笑しい語感ですよね」
そんな軽口を叩きながら、もしかしたら彼女の心のありかはすぐ目の前にあったのかもしれない、とさえ思えていた。
やがて夜の闇が急速に取り払われてゆく。橙色の朝焼けが地平線から急速に溢れてくる。
猫はいつの間にかどこかへ行ってしまっている。
エルは再び服を脱ぎ、巻貝の宇宙船に乗り込む。
『さようなら』
扉の部分から覗きこむようにして顔を出している。
「ああ。さようなら」
巻貝の外郭をもつ宇宙船が、金色の尾を引いて空に浮上していく。
「さようなら」
『さようなら』
宇宙船は重力を無視するように、回転しながら浮力を得る。エルが扉を閉めると、回転が早まり、初めて出会った時のようなエネルギーの光そのものになる。
やがて速度を得た光は空抜ける。

エルが飛び立ってから、僕は空虚な思いに満たされていた。何もかもが空っぽになってしまったのだ。
器の中の水を心だと仮定する。その水に浮かぶ小さな泡を欠落だというのならば、僕の心はかつて欠落と信じていたものと、充足と信じていたものが逆転していた。
あの日以来、僕は地球上のあらゆる、出来事に対して心を動かすことはなくなった。何故ならば心のすべてを彼女に捧げてしまったからだ。今の僕はただの動く肉体でしかなく、精神活動も疑わしい。頬を自分で殴っても痛みが鈍いくらいである。神経系がどうにかなってしまったのだろう。
友人と出会うと、馬鹿な話をして笑うことができる。家族や仕事の問題などにも真面目に取り組むことができる。しかしそれは僕の表面で起きている薄皮の出来事でしかない。地球上で活動を営む生命が、地上という薄皮の上で息づいているにすぎないように、どんな出来事も紙屑のように流れ去ってしまう。
あのときエルは一つの嘘をついたのかもしれない。
彼女は僕を連れていくことは不可能であるといった。
だが本当のところは僕の精神を連れて行ってしまったのではないか。
そう思えてならない。
それほどの空虚。
もしかしたら僕はただただ壊れただけなのかもしれない。今でも彼女の幻影に弄ばれ続けている。
しかし可能性として、僕の精神の一部が彼女の中で息づいていて、時折、エルの永遠とも思われる航路の中で、意味のあった生活の風景として思い出されるということもありえる。
あるいは僕との生活をもとに模倣体を生み出し、地球外で生態系を築く可能性も考えられる。
エルの魂が二つに分かれたのだとしたら。
僕の魂を本当に連れ去ってくれたのだとしたら。
こんな薄皮のような世界ではない、どこか遠くで、二人きりで生きることができたのだとしたら。
こんな素敵なことはない。
だがそれを確かめることすらもう叶わないのだ。
呼びかけてくれる彼女はもういないのだから。

その二日後、僕は死ぬことにした。
何度も煩悶を繰り返した末の結論だった。
彼女と暮らしたアパートは確かに存在していた。一緒に眠った布団や台所には先日までの生活の痕跡が残っていた。
どれだけ考えても、薄情な奴だったとしか思えない。
しかし怒りをぶつける相手も今はいない。
僕が死ぬまで、彼女に生き続けて貰ったとしたらこんなに苦しい思いは抱かなかったのだろうか。
きっと、彼女に無理に生きて貰ったとしたら、その年月分の苦しみを引き受けていたのだろう。それが人間でないものと一緒にいることの代償なのだろう。
彼女があらゆるものを模倣できるエネルギーボールだったとしても、その特性に甘んじた瞬間、僕はエルを人間ではないと認めたことになる。
彼女が自らを人間だと認めなかったとしても、僕が認めなければ彼女の行き場はなくなるのではないかと思う。
エルを人間だと認めなければ、エネルギーボールとしての彼女がコツコツと集めてきた『感情エネルギー』にまつわる出来事に、意味がなくなる。
生きた意味がなくなる。
だから僕は彼女を人間だと想いつづける。
感情のある生命体だったのだと想いつづける。
想いつづけて僕は、死にたいと思う。
彼女のいない世界で呼吸をすることは、水の中にいるときと等しい。
ただどのような死に方が良いだろう。
できるだけが彼女が喜びそうな死に方。
エネルギーボール的な死に方。
爆発が良いだろうか。
人間は光になれるのか?
まだ僕は彼女のことを考えている。
彼女に近づきたいと考えている。
宇宙飛行士になりたいとさえ思う。
しかし宇宙飛行士の速度では彼女に追いつけない。
やはり光になるしかない。
そう結論づけて僕は眠りに落ちる。

何度も目覚めては眠りに落ちる。
彼女の夢をみて、起きてはまた沈む。
次の日も、その次の日も彼女は夢の中に現れる。
やがて彼女は本当に夢の中に存在するということを確信する。
人間のとって光の要素は瞼の内側に存在している。
僕は死なないことが光に近づくことなのだと悟る。

巻貝の宇宙船で宇宙空間に漂いながら、エルは人間としての思考が消えていないことを確認する日々をすごしていた。
宇宙船の中は部屋になっていて、模倣の力を用いてベットと机を作成する。これでエルはくつろぐことが可能になる。くつろぐとは文化的な行為だから、気分はキャプテン・ハーロックだ。
寝そべりながらエルは彼に施したことを思い出している。人格性が消えること。別れになるだろうこと。
彼の身体に極小のエネルギー体の糸を張り付けておいたのだ。
その糸は宇宙空間を進む距離に比例し、宇宙船の装甲を削りながら長くなる。
糸は地球の自転の影響を受けないための次元超越的な措置を施しているため、燃費がいいものとはいえなかったが、そうした効率と彼の記憶はエルにとって天秤にかけられるものではなかった。
彼が新たな出来事に出合うたびに、その心がほんの少しエネルギーに変わり、宇宙空間を漂うエルに伝達させる。
雀の涙ほどのエネルギーだtったが、エルは彼の情報を得るだけ満足できる。
彼がしっかり生きているという事実がエルを勇気づけてくれている。
こうした事実は彼には言わないでおいたが、知ったら安心させてしまうのであえて黙っていた。
さようなら、とはいったものの、エルの性格の悪さはきっと理解してくれているはずなので、これからエルのすることも受け入れてくれるはずだ。
今も糸から感情が流れ込んできている。
エルは彼の表層意識と接続できるように『糸』の仕様を組んでいる。
どうやら一つの可能性を思い浮かべたらしい。
『僕の精神をつれていったのではないか』
なるほど。まったくもって、正解である。
「別れてからの両想いもあるものなんですね」
エルは退屈さを感じながらひとりごちる。
時間を見つけて、生活用品を模倣力で構築する。長い旅の中で人格性が消えないようにするための措置である。人格性があれば感情エネルギーが生まれる。人としての心が寿命を迎えるまではエネルギーの足しになる。
鏡と最低限の生活用品を造れば、人として自我を保つことはできる。良く考えれば暇つぶしを自分で作ることができる時点で、暇による発狂の心配はなくなる。
ひととおり生活の心配がなくなってからは糸を通じて彼の体験した出来事を観察する。
再婚はしたようだが、私とのことを話し、嫁に引かれているらしい。
〈エネルギーボールってなに?おもしろいね〉
彼がエルの話をするたびに嫁は信じようとしないが、うまく茶化してくれて
いるようだ。冗談のわかる嫁でよかった。
「まったく。良い嫁ですね、本当に」
過去のような嫉妬はなかった。いまやエルは距離こそ離れながら、それと気づかない程度に彼と精神の結合がなされたのだから。
彼は夜になると夢を見る。夢こそがエルと繋がる手段であるという見立ては正解である。夢の中では、表層意識が薄れるためふたりを繋ぐ糸がより食い込む仕様になっている。こうして眠るときだけ擬似的に会話をすることができる。意識が薄れる時だけエルとの次元超越的な電波が開通する。だから彼は毎日夢をみることになる。
夢の中でエルは話をする。その日彼の身に起きた出来事を聞く。
「そっちはどうだい?」
「暇で死にそうなんです」
「嫁の服で良ければ、形を教えてあげれるよ」
彼は夢の中でポン、と素敵なワンピースを顕現させる。エルは宇宙船の中で目覚めてから、エネルギー力を用いて服を再現する。
キジトラ柄なのでさすがに似合わなかった。彼の嫁はなかなかハイセンスな持ち主のようだった。
次の日も再び彼と夢の中で会話をする。
夢での会話は、大概は忘れてくれているが、エルとの連絡線が保たれているという認識はしてくれているようだった。現実では忘れているが夢では微かに会話をするという日々が続いた。こうした緩やかな関係こそがふたりの臨んだ終着点なのかもしれなかった。
次元超越的な糸電話で夢の共有をし、40年ほどの月日が経過する。
彼の寿命が迫ってくる。
物質と言う概念を超えたエネルギーの糸は絡まることなく彼にひっついている。
彼が死ぬ間際にエルは夢の中で問いかける。
「ずっとみてた」
「しってたよ」
「二人で宇宙空間を漂うことと、大差なかったでしょ」
そこでエルは初めて自分の考えを打ち明ける。
彼は、まいったな、と肩をすくめる。
エルはそんな彼をいつまでも虐めていたいと思う。
いつだって翻弄していたい感情が勝ってしまうのだ。
彼は困った様な泣きそうな表情をする。心が壊れる寸前でエルが人間的なしぐさをすると、彼はほっとしたような穏やかな表情になる。そのときのやりきれなさの中に、優しさを見出そうとする彼の強さが、エルにとって最もおいしい感情になる。
それがエルにとっての自然体であり、彼女なりの愛情表現なのだった。
ふたりの自我は同じ時間軸の中でうっすらとやすらかに消えていく。
宇宙には、ふたりの感情によって編み上げられた光速のエネルギー体だけが飛び続けている。

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