屋上 森央未土

十階建てのビルの屋上は地上よりもずっと、空の模様や地平線が見渡せて、たいそう気持ちの良いところだった。差し込んだ日差しと植物のにおいを含んだ風が、春の兆しを感じさせている。地上に這いつくばってあくせく働いているときは意識もしなかったが、こういう世界の機微を鮮やかに感じ取れる人は生きている実感をもてるのだろうとペロ(28歳♂)は思った。しかしそれも自分の住む世界とは縁のないことだろうとも納得していて、その諦めがペロの決心をより頑ななものにしていた。彼は今日、この屋上から飛び降りると心に決めていた。

朝。自分をクビにした会社に何食わぬスーツ姿で出社した。顔見知りに会わないために会議の時間を見計らった。会社までの道のりの間、活発な人々の溢れが彼の気分を押しつぶした。胃の辺りが萎縮する感じにペロは恐ろしい吐き気に見舞われた。しかし、ここで倒れては自殺する意思が挫けてしまう気がした。体の抵抗を我慢して非常階段に向かった。立ち眩みをしながら俯いてのぼる。ごんごんと金属を踏む足音が響く。吹き抜けなので高度が増すたびに風が冷たくなっていくように思えた。天国への階段のようだった。天国といっても、ペロには信仰心はなく、完全な無を望んでいた。落ちて、死んで、無になるのだ。来世もありませんようにと祈っていた。
最上階の塗装のはげた鉄製のドアを開け放った。空の模様や地平線が見渡せたが生きている実感などはなにも表れなかった。
ペロはうつろな動きでドアの裏手にある給水タンクのはしごに手をかけた。足を着き立ち上がり、給水タンク上で腕を組んだ。ふふふ、と、なにかつぶやきながら。自分が死ぬ街を俯瞰し、モチベーションを高めるという彼なりの作戦だった。それに、飛び降りるなら一番高いところだなとペロは心に決めていた。
「ああ…ヒトがゴミのようだ……」
ペロ(28歳♂)は、一度言ってみたかったんだよなと一人つぶやいた。腰をねじりながら墓標のように突き出たビルの町並みを一望する。くだらない世界を見下ろしてぶつぶつと呪詛を唱えた。そうすることで自分が惨めになり、死にやすくなるように思えたのだった。
「あ……」
しかしペロは、隣のビルの給水タンクを見て驚きのあまり声をあげた。
自分と同じ目線で、給水タンクで腕組をしながら腐った街を見下ろす、OLさんの格好をした人と目が合ってしまったからだ。
「ああ……ヒトがゴミみたい」
ペロが見ているのに気づいていないOLさんはそう言って腰をねじり、無機質な立石にしか見えない灰色の街並を見渡した。呪詛を唱えて、視界の隅にペロの存在を確認してから「あ……」短い声を上げた。OLさんの顔が恥ずかしさで見る見る高潮した。
屋上の給水タンクで腕を組み余裕のポーズをしていたふたりは、状況が良くわからないという風に、幻覚であってほしいと願うように、目をこすり、顔の向きや焦点を代えたりしながら、ぼんやりと互いを見た。
会社の昼休みまではかなりの時間があることを、東に傾いた太陽が示していた。
OLさん(26♀)は短めの黒髪でメガネをかけていて、見ようによっては、綺麗な女性だったが、不健康な印象が色濃く浮き出ていた。互いのビルの間隔は端を繋げても5メートルほどあるから細やかな造形までは良く見えないが、折れそうなほど華奢な印象であった。
「あのぅ、ここの会社の人ですよね? 腕なんか組んで……」
OLさんはガチガチに腕を組んだまま、ペロに声をかけた。少しだけ互いの距離があるため、自然と語尾が延びて叫ぶ感じになる。
「べ、別に、ちょっと仕事がいやでサボってたんです。あなたは、ここのOLさんですか? 」
「……まあ、そんなところです。私も。いろいろあって」
「いろいろってたとえば……仕事関係ですか?」
「で、でも、あなたに関係ないですよ」
OLさんは腕組を解いて、ほんの二、三秒両手をぷらぷらさせて
「それより、邪魔なんで帰ってくれません? 」
それからペロを恨めしげににらめつけてから、プイとそっぽを向いた。何かとてつもない衝動に追われているためにペロを引き離したいようでもあった。OLさんは再び自分を抱きかかえるように腕を組みなおして街を見下ろした。その瞳は半分は髪の毛に隠れていたが凍える湖のような光をたたえていた。
ペロは「うぅ」と物怖じし、ひとまず給水タンクから降りて体制を立て直そうかと考えた。しかしそうすると自分の「ビルから飛び降りること」に対する意気込みが薄れてしまうような気がしたので、気を強く持って留まった。そのためには向こうのタンク上にいるOLさんをなんとかして帰らせる必要があった。このままでは見ず知らずの人に、しかも女性に見られた状態でビルから飛び降りなければいけない。誰かに見られて死ぬことがペロには耐えられなかった。人の死を見ることは残酷なことだからだ。
ペロは意を決してOLさんに向かって叫んだ。
「僕も用事があるんですよ。人生を左右する大事なことなんです。あなたが帰るまでここから動きませんから」
髪をかきあげて、両手を開き提案の意をしめした。
OLさんはまた恨めしげに目を細めたままペロに視線を向けた。
「なんか特別な理由でもあるんですか?」
「あ、ありますよ。重大なことなんです」
「どうせ太陽の位置を測る仕事とかタンクの点検とかそういうどうでもいいことなんでしょ」
「ち、違いますよ」
いうべきかどうか迷ったが、怖気づいて家に帰るまでのことや、見通しのない残酷な未来のことが頭によぎって、今死ぬべきなのだ、という強い決心がペロに芽生えた。
「これから僕はっ、このビルから落ちるんですよ」
ペロは自分がやろうとしていることを告白した。沈黙が波のようにゆらりと空に広がった。言葉の意味が静けさにたゆたいOLさんに伝っていった。何かの鳥の泣き声がビルに反響している。ペロは構わず続ける。
「あなたがっ、ここで何をしてたって、どうせあと何分か後には僕はもう地べたで血だまりなんです。するとあなたはとても気持ちの悪い思いをします。この先の人生でふと思い出して気分を害したり、ノイローゼになったりするんです。いいんですか? 」
ペロはまるでもうふっきれてしまったかのようにまくし立てた。
「いいんですか? 」もう一度念を押すように声を振り絞った。
これで、OLさんが怖気づいて、もしくは自分を狂人と思って、いなくなってさえくれれば、一瞬で飛び降りれるだろうと思った。早くいなくなってくれ、死にたい、今際の際まで、こんなにも巡り合わせが悪いのなら、もう静謐さなどなくていい。
ペロは自分の自殺を見ず知らずの人に見られるのは嫌だったが、頭のおかしい人と思われることについては気に留めなかった。むしろ、そのように軽蔑されて非難されたほうが死にやすいものだともふっきれていた。
しかしOLさんは冷静で、ああ、こんなこともあるのだろうな、という表情で落ち着いていた。運が悪いなあという落胆が顔色にでているようでもあった。それから
「それは困らないよ」
ペロの言葉を断固否定した。
「でしょ……え?」
ペロの同様もおかまいなしだった。
「うん。だって私も今これから落ちようって決めてたし」
そうしてまるで未来なんかないとでも言いたげに
「それに訂正して頂戴。わたしはもうOLなんかじゃないの。クビになったから」
ぁは、と、青白い表情で眼を細め、微笑みかけたのだった。
「あなたが落ちるところみたら怖くて怖気ついてしまう。きっと、飛べなくなる」
「じゃあ、今日のところは帰って明日死ねばいいじゃない」
「いきおいがなくなるからいやだよ……」
あれから二人はかれこれ20分ほど、どちらが後に死ぬかの論争をしていた。今のところはOLさんが一方的にペロを攻撃しているという状態だった。
「いくじなし。その程度で死ぬ勢いがなくなるから、クビになるのよ、この根性なし。なよなよしい。虫っ 」
「欝だ死のう」
「あ、まって、私が先っていってるでしょ、ドサクサにまぎれて何弱いもの装ってるのよ」
「ち……」
ペロの舌打ちは聞こえなかったがOLさんは言葉で誘導されていたことに気づいて、『我飛ぶべく』と両手を広げた彼をなだめにかかった。ふたりはどちらが後に死ぬかの押し付け合いを幾度となく繰り広げていた。
ペロは飛びそうな動作をしながらどうすれば二人が納得できるか考えていた。このままでは二人ともが死にきれないという危惧を抱いた。
方法はすでに思いついていた。しかしそれを彼女の方が呑んでくれるかどうかが問題だった。受け入れてくれなかったら、どちらも目的を遂行できないまま、再び、死んだほうがましなほどの、暗くおぞましい現世をさまようのだろう。
明日も明後日も死にたい、死にたいとのた打ち回るのだろうと思った。それならば、今死んだほうが幸福なように思えた。ペロは結論した。いままで自分の意見を肯定されることなんてなかったため、言い出せずにいたが、思い切ってOLさんに提案をした。
「あの」
「なに」
「簡単な話なんだけど」
「ぅん」
「ふたりで同時に飛び降りればいいんじゃない? 」
「いいわね、それ」
ペロは提案が受け入れられるか不安だったが、OLさんの返事は意外にあっさりとしたものだった。
「いいの? 」
ペロは久しぶりに自分を肯定された気がして、いままでの人生が否定の連続だったことにあらためて実感し、余計に飛びたい衝動にかられた。それに、誰かに死ぬ瞬間を見られたと後悔を残して死ぬことも無い。なぜなら二人同時に死ぬのだから。もしかしたら今は幸福の中にいるのかもしれないとペロは考えた。
「うん、いいよ。なんか私、もぅ吹っ切れちゃったってゆうか」
OLさんは青ざめつつもすがすがしい表情をしているように見えた。
「私さ、友達とかそういうのいないし、そもそもろくに人と話したことないから。うまく言えてるかわからないんだけど。最後がこう非現実的でおもしろかったらさ、もういっかなーって。いつも死にたいなとか残酷なことばかり考えているけど、今は笑って飛べそう」
「そうなんだ」
「うん」
「じゃあそれでいっか」
「そうだよ」
そういって給水タンクでモチベーションを高めた二人は後悔などないとばかりに両手を広げた。互いに視線を向けると風にあおられるように脚が震えているのがわかったが、伸ばした手と手がどこか重なっているように見えると不思議と安心感を覚えた。
あるいは、孤独な人生に疲れて死のうとしていた二人に、奇妙な絆のようなものが芽生えていたのかもしれない。
ペロとOLさんの表情はもはや天寿を全うせんとする人のそれだった。
「いっせ―ので? 」
ペロが訪ねた。
「うん。いっせーので」
二人は初速を踏もうと大きく息を吸い込んだ。落ちる、その運動が解かれたとき二人は血だらけにつぶれてはじけるのだろう。飛べ飛べ、ペロは心の声を聞いた。声は何度も何度も胸の中に木霊してゆく。それは飛び降りる際の体の恐怖をぬぐってくれるように思えた。
しかしそのとき。近いどこかの場所で。
壮絶な、金属と金属がぶつかりひしゃげる音が、都会のビルの屋上まで貫き、きーんと響きわたった。
そこはうじゃうじゃと人や物の沸き立つありふれた道路だった。ペロやOLさんのいる屋上のちょうど真下での出来事だった。
(た……へんだ。事故っ。交通……こ)
(はぁ? 対抗しあうト……クに挟まれたって?)
下の喧騒がとぎれとぎれに二人の耳に入ってゆく。
(みれたもんじゃねえ……)
(救急車を、早く!)
屋上からはたちのぼる黒い煙とひしゃげたトラックと赤くとびちった何かが小さく見えた。遠目ではあるがじわりじわり血溜まりが広がってゆく様が感じられた。
ペロはあまりの急な事故に飛ぶことを忘れて給水タンクに立ち尽くした。自分がまさに死のうとしていた場所で自分ではない死体がはじけていることに足がすくんだ。血溜まりが肉塊がまばらに散らかっているのが屋上からでも小さく見えた。眩暈でまぶたの辺りがちかちかしてきてペロは給水タンクに座り込んだ。
OLさんも膝をがっくりと落とし
「ぁ、やだぁ」
うなだれて
「しにたくなぃ、やっぱやだ」
血だまりをみたショックか泣き出していた。
「やだやだ、やっぱおぅえ――――――ぇ、―――ぇえ―――」
口元を押さえて適わずに嘔吐した。出したものが真下の道路に流れ落ちた。ぱしゃん、と水気のある音が響き渡った。
どこからか駆けつけてきた救急車の音を聞きながらOLさんはまぶたを閉じた。
何度眩暈におそわれたかわからなかった。何分たったのかもわからない。それでもいつのまにかペロは給水タンクから降りていて屋上で寝転び空を眺めていた。太陽の方角から推測するにそれほど時間はたってはいないようだった。OLさんの方を見ると、同じくいつのまにか給水タンクから降りていて、うつぶせに胃液だかよだれをたらしてぐったりしていた。
「おい」
「なに」
ペロが話しかけるとOLさんは少し間をおいてから億劫そうに返事をした。
よかった生きてる、とペロは何故だか安心した。
「下おりて病院いかない?」
「もー、どうだってぃー」
「あーあ」
「あたし帰る」
「ぅん」
OLさんはよっこらと立ち上がって屋上の入り口ドアにひょこひょこ歩いた。
「なにぼうとしてるの」
そして涙やらなにやらで腫れた瞼をペロに向けた。
「具合わるいからもう少し寝転んでるよ」
「やっぱりわたし病院いくよ」
じゃ、とOLさんはドアノブに手をかけた。がちゃとドアの開く音が聞こえる。しかし、なかなか閉まる音は聞こえなかった。OLさんは大丈夫なのだろうかと思いペロは起き上がった。OLさんはドアの前でぼんやりとこっちを見ていた。なに、ぼうとしてるの。OLさんはもう一度ペロに言った。
「病院、いくから」
じゃあ、とOLさんはドアを閉めた。
ペロも地上に帰るべく屋上のドアに向かって歩いた。
屋上だというのに植物のにおいを含んだ春の風が吹いた。その冷たさに、自分がいる高度を思い浮かべてとても怖くなった。
ふと胃の辺りが締め付けられるような感覚に襲われた。病院にいったほうがいいかもしれない。ペロは少し早足で地上に続く階段を降りていった。

 

2009.5

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