壱、幸せ家族計画

「マーマーっ、えいご教室始まっちゃうよー」

 廊下の奥から「ハーイ」と、明るいママの声がした。
 柚はもう既に靴に履き替え、玄関でぴょんぴょん小さく飛び跳ね急かす。
 赤いエナメルの靴がタイルを蹴る度、チェックのスカートがふわふわと揺れた。
 バタバタと慌しい音を立ててママが廊下を走ってくる。長くて綺麗なママの栗毛色の髪は、先程のスカートの様にウェーブがかっていて窓から射す春の陽射しにきらきらととても綺麗に見えた。

「ごめんね、柚」

 ママはそう言って、柚の頭を撫でた。
 たったそれだけで先程の鬱憤は、まるで何処かに飛んでいってしまったように、すっとどこかへ消えてしまった。

「なんだなんだ、朝から騒々しいなぁ」

 パパがまだしましまパジャマを着たままで、苦笑浮かべつつ居間から顔を出す。髪は寝癖であっちこっちに飛び跳ねていて、剃ってない髭もぼさぼさだ。そして「そうか、きょうは柚の英語の日か」と呟いて、勝手に一人で納得した。柚の自慢の、大好きな優しいパパである。

「がんばってくるんだぞ?」
「うん! あ、ねえパパ。あのね、聞いてもいい?」
「うん? おい、ゆかり。時間は大丈夫なのか?」
「ええ、柚がちょっと張り切りすぎちゃって……。で、柚、一体どうしたの?」

 パパはちらりとママを見る。ママは少しだけ眉尻を下げて、コクンと頷いて柚を見た。

「うん。あのね。柚はどおやってうまれたの? 葉月おばあちゃんはね『鳥はんが運んできたんよ』って言ってたんだけど、きーくんは『スーパーのキャベツ売り場から買ってきたんだ』って言ったんだよ。ね、パパとママならわかるでしょ? 柚はどおやってうまれたの?」

 一瞬、パパの顔色が変わってまるで恐ろしいものでも見るような眼付きでママの方を盗み見た。一重の両目を思いっきり開いて、瞳が眼球の真ん中ですーっと音も無く小さくなっていく。
 ママはニコニコとずっと笑っている。ずっと。
 柚は二人がなかなか答えないので困った様に首を傾げた。

「――……あのね」

 それからすごーく時間がかかって、ママが優しい口調で言った。身を屈め、柚の肩に手を置き目線を合わせる。
 突然パパがビクッと大きく震えた。真っ青な顔で、ずっと小刻みに震えている。柚は何故か、この前保育園でボール遊びをした時にボールを蹴っ飛ばして教室のガラスを割っちゃった、きーくんの事を思い出した。
 だけれど柚はこんなパパ、知らない。

「あのね、柚」

 ママが言う。

「柚はもう、アルファベットは全部言えるかな?」
「うん? うん、全部いえる! えー、びい、しー、でぃ、いい……」
「じゃあ柚、『H』の次は?」
「『H』の次……? えっと、えふ、じぃ、『H』……あ、えっとね『I』だよ!」
「うん、そうだね。柚はそうして生まれたの」
「えーっ、柚ってアルファベットで生まれたんだ? すっごーい!」

 ママはニコニコずっと笑っている。柚の頭を優しく撫でて「いい子だね」と囁いた。
 そして、真っ青なパパを振り返る。長くて綺麗な髪の毛がふわりと揺れて、ママの顔を隠した。

「それじゃ、英語教室に行ってくるわね」

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