弐、グランドストーカー

 あたしに貴方はいるのだけれど、貴方にあたしはいないらしい。

 蹴飛ばされたボールは青空に弧を描き、静かな音を立ててゴールネットに沈み込む。
 私は間近にそれを見て、両腕伸ばして飛び跳ねた。あたしの丁度目の前で、余韻に浸ってネットが揺れている。
 悔しげに笑うゴールキーパー。それを横目に佐井君はワールドカップの中田を真似て高々拳を空に突き上げる。
 彼の手は、今は雲すら掴めるだろう。そう確信する夕方。

「佐井君」

 私は彼の名前を呼ぶ。堪えきれずにグランドに走りこむ。遠くでホイッスルが鳴って、再びゲームは再開された。
 佐井君は走る。広いグランドを縦横無人に。さっすが、サッカー部のエースだ。
 女の子達のグループがグランドの向こうのフェンス越しにキャーキャーキャーキャー……まるで動物園のネズミみたいに声援を送ってる。……あ、動物園にネズミはいないか。
 佐井君にそれは聞こえていない。飛び散った汗が放課後の傾いた陽射しを反射して、光る。保育園の頃一緒に作った万華鏡の中のビーズ玉のように。スパンコールや折り紙の中で、一際鏡に映って輝いていた、あのオレンジ色をした小さな小さなビーズの玉のように。
 あたしは呼ぶ。佐井君、と呼ぶ。彼は全く聞こえないふり。

『柚ー、悪ィ、数学のノート見して!』

 以前の様に、あたしの名前を呼んでくれない。それでも、私は追いかける。彼の後ろを、横を、前から、ボールを追いかけ走る彼を追う。
 あたしは呼ぶ。佐井君、と呼ぶ。彼は決して振り向かず、ひたすらボールを追い走る。
 フットワークとテクニック。私はサッカーに詳しくないけれど、クラブの中で誰よりも佐井君がずば抜けて上手い事位わかる。
 いつか誰かが囁いた。
 あいつは推薦で、F高に行くんだぜ。
 何故だか私が、自慢したい気分だった。F坂高校、全国から優秀な人材を集めてくるサッカーの強豪私立高校。街中胸を張って歩き回ってやりたかった。
 そんな彼を好きでいる自分、たったそれだけで私は純粋に嬉しくて、大きく息を吸えるのだ。
 鋭く響くホイッスル。
 選手たちの足が一度、緩慢な歩調へと変わる。
 佐井君は高く、拳を掲げ、ゴールネットは大きく揺れる。

「佐井君」

 あたしは彼の名前を呼んだ。一瞬視線が重なった。あたしは大きく腕を広げて、緑の芝生を蹴り飛ばし、彼の胸へと飛び込む。
 佐井君は溌剌とした清々しい表情で、額には汗が滲んでて、その手は空へと向けられたままあたしの真ん中を通り抜け、チームメイトの元へと、向かって走っていった。

 佐井君はこれからもっともっと身長も伸びて、どんどん大人になっていく。それなのにあたしの時間は、去年の七月から止まったまんま。
 佐井君のプレーに見入ってしまって後ろから突っ込んでくる大型自動車に気がつかなかった事故だった。
 だけどもあたしは哀しくない。あたしが死んだ時に佐井君は泣いてくれた。あたしの為だけに、泣いてくれた。
 彼に触れられないのは哀しいけれど、これ以上あたしが大きくなれないのも哀しいけれど、あの日細君が流した涙はそんなもの全部洗い流しちゃうくらい、あたしにとって嬉しいものだったんだ。
 それにこうして朝も昼も夜も、ずーっとずーっと永遠に佐井君の一番近くにいれるんだもん。
 ほら、だから、あたしは世界で一番幸せ。

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