伍、我輩はニートである。

 我輩はニートである。名前はちゃんとある。
 西原恭介、今年の七月でついに三十路に入るニートだ。ただニートといっても、先日たまたまバイト先のコンビニが不景気の影響をもろに受けて潰れ、その為にこの世間の荒波に放り出されたいたいけな子羊とでもいおうか。だからニート歴なんて浅いのなんのって。
 取り合えず、来月からの仕事を探しに行こうと思い朝は家を出た。中堅大学の人文学部を出て、小説家になろうと志した夢を、律儀に未だ追い続けている。道端に、山吹の花が咲いていた。甘い芳香、そういう些細な日常の一コマ一コマの中に何か、誰しもが気付けなかった何気ない小さな発見を求めて、結局今日もただ昼間の街をぶらりぶらりと歩き回って時間が過ぎていた。
 公園に足を踏み入れると、大きな時計塔が目に入る。元々白だったらしいそれは長年の風雨に晒されて、いまや煤けた灰色と赤錆にまみれていた。それの丁度正面には滑り台やシーソーを初めとした簡単な子供向けの遊具が設備されている。その中のブランコに腰を掛け、何気なくまず空を仰いで、ゆっくりとその視線を正面の時計の羅針盤まで下ろしていく。そして時刻だけを確認し、そのまま頭を垂れると視界には自然と自分の足元が入る。
 長年履き続けてくたびれたスニーカーが、柔らかい砂地を蹴り上げる。ゆっくりと前後に動き出すブランコ。前に進んでは、戻る。後ろに下がって、下がって、下がりきっては再び前へ向かって揺れ動く昼過ぎのブランコ。
 羊雲が浮かぶ穏やかな空が投げかけた青は何処と無く群青色をしていて、夜が近いのを知らせると同時に、何も無い俺への同情を感じた。
 エヌ・イー・イー・ティ。
 平日の三時を少し過ぎた頃、今日の公園は普段より少し人が少ない。
 見放された。……そんな、被害妄想。

「ああ、今日もココでたそがれてるんですか?」

 トーンの高いよく澄んだ声。俺は顔を上げると同時に地面に踵を擦りつけ、揺れるブランコの勢いを殺した。
 淡い青色のワンピースに、ベージュのパーカーを羽織っている。ショートボブカットの真っ黒い髪が風にさらわれる様にさらさらとなびいた。

「何かいいアイディアでも浮かびました?」

 彼女は早坂ちよりという、なんとも珍しい名前の持ち主で、しかも俺の小説のファンだというとんでもない変わり者である。しかも未だ十七、八程だろうに何故に平日の昼間の公園へ出没するのかなど、色々と謎の多い少女だ。
 彼女と始めてあった時、俺は書きかけの小説の内容をちらりと見せた事がある。(ちなみにそれは三ヶ月ほどたった今でも、そのプロローグの続きを一文字も書けていない長編純愛SFファンタジーだ)
 それだけで、彼女は俺の小説に「惚れた」らしい。
 あの日の空も、こんな情けない群青色だった。「何を書いているんですか?」そんな一言から始まった俺たちは、今日と同じようにブランコを漕ぎながら言葉を殆んど交わさずにただ一人は羊雲を眺め、一人は汚い文字が並んだノートを静かにめくった。
「私、本は結構読むんだけど、評価される為に書かれた小説は、はっきりいってあんまり好きじゃないんです」あの日の彼女の笑顔は、夕日の逆光に薄暗く霞んで、俺の瞼に鮮明に今も焼きついている。
 俺が緩く首を振ると、何も言わず彼女は隣のブランコへ腰掛けた。そして、錆びた金属が軋む音を立てながら緩慢な勢いで前後に揺れ動く。

「私、この間すごい発見しちゃったんです」

 青が徐々に紫へと染まる中、彼女は空を見上げて口を開く。その声はとても良く澄んでいて、本当に、良く澄んでいて何処までも届きそうな音を出す。
 細い指先が錆びた鎖を離れて斜め上、青いキャンパスに向けられる。

「えぬ・いー・いー・てぃ。で、ニート」

 宙に書かれた文字は見えないはずなのに、彼女の指の軌跡ははっきりと歪んだ空に残ったままで。

「それでね」

 一度、彼女は俺を見て微笑む。もう一度そして空を指す。

「えぬ・いー・いー・でぃ。で、ニード」

 自信たっぷりに胸を張り、その白い華奢な両腕で天地をひっくり返して見せたかとでもいうように、彼女の頬はほんのりと上気して夕焼けがじわじわと滲んでいく。

「どうですかこれ! 凄い大発見じゃないですか? だから、”I need you.” ……なーんて、あの小説の続き、私楽しみにしてますからね!」

 蹴り上げた地面は砂埃を上げ、ブランコは彼女を乗せたまま、大きく空へと向かって飛んだ。

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