陸、青い放課後

 放課後にある教室の色を、僕のクラスの人間の、一体何人が知っているものだろう。大会目前の運動部が夕暮れの赤と街灯の色に遠く滲んだ声で叫ぶ中、僕は一人、教室へ向かっていた。
 この高校は運良く、僕の自宅から徒歩五分もしないで来れる場所にあり、僕が制服姿であり且つ校門さえ開いているのだったら、いつだって好きな時間に校内へ入れる事が出来た。朝ギリギリまで眠っていられるし、部活動にも委員会にも所属してないので帰宅だってすぐだ。当然自転車だっていらない。
 なんて自分はラッキーなんだろう。時々こうして忘れ物を取りに、放課後の学校へ向かい歩く時、僕はしみじみ感じるのだった。
 僕の教室は、薄暗かった。電気もついていなくて、誰もいないと思い込んでしまっていた僕は、教室の一番奥、窓際一列最後尾にある小さな人影に思わず足がすくんだ。ガラリと開いたドアの音、響いた後に残る静寂。重なった視線に鳥肌が立って、それから溜息が口を零れた。
 西窓から射す鋭い夕日に半分だけ頬を赤く染めていた彼女は、仄かに暗い放課後の教室で、一人静かに本を読んでいた。ストライプ模様のブックカバーは、朱を浴びながらもその鮮やかなピンクとホワイトを主張していて、それがまるで、大人しい彼女の性格とは裏腹な強がりを強調しているようで、僕は黙って視線を逸らす。
 早坂藍、僕の真後ろの席の住人。某女性プロゴルファーと同じ名前をしているくせに、性格は真逆もいい所で、正直僕は苦手だ。数ヶ月前、くじ引きで決まった席順。あの日の僕は、つくづく、ラッキーから見放されていたに違いない。
 窓際の席へ足を運びつつ、何も口にしない早坂をちらり、ちらりと盗み見る。先程一瞬重なった視線は既に活字へと戻されていて、眩いばかりの逆光が、短い髪の一本一本までも透かして僕の眼に映る。
 二重の眼は何処か寂しそうに細められ、白い指先は静かにページを捲っていた。
 気まずく覚えた空気は今や、午後の光に緩和され、放課後の教室は徐々に朱色が紫に変わる。
 僕は椅子を引き、自分の机の奥に詰まっていた英和辞典を取り出す。厚いそれを、背表紙を鷲掴む様にしてしっかりと持ち直した。再び椅子を机に収めた時、何気なく振り返る。彼女の長めの前髪は、睫に掛かって表情を隠していた。

「お前さ、あんまり、暗くなるなる前に帰っとけよ?」

 それだけ言って僕は教室を出た。早坂の顔も見ずただ教室から逃げた。
 どうしてそんな台詞が、口を零れたかはよくわからない。ただ何と無くわかるのは、僕が、自分で感じている程に彼女が嫌いな訳ではない事。
 玄関を出たら、家まで思い切り走りたくなった。だから走った。
 山吹色した小さな花が、視界の端から端へと流れて、僕は彼女を思い出し、口の中は何故か苦い味がしていた。

 それから数ヶ月。何も無い日々が続いた。僕は毎日学校に行き、彼女は滅多に学校に来ない。たまに顔をあわせた所で別に、何か言葉を交わす訳でもなく、彼女の存在は僕の世界からだんだんと薄れつつあった。
 そんな毎日だったからこそ、突然、彼女が目の前に現れた時は驚いた。そして、即座に、それが夢だと悟った。
 こんな現実がある訳が無い。そう思い僕は心の中で笑った。しかし、夢の中の僕は、やけに真摯な顔をして真っ直ぐに彼女を見つめ続ける。そこの世界は仄暗く、天地左右すら歪んで虚ろで、ただ少し、ほんの少しだけ肌寒い。
 薄い青い霧が辺りを満たしていて、その向こう側で早坂は手を振る。誰に? 僕にだ。そこには僕と早坂しかいない。
 僕は驚く。が、相変わらず真面目腐った表情で、早坂を見つめる。夢の中の僕は、あくまで「夢の中の僕」であって僕自身ではないのだ。自分自身を内側から見ている、何とも形容し難い感覚。思い通りに動かない僕の四肢、もどかしさと恐怖が心の中、ずっと深い所でぐちゃぐちゃと入り混じり段々形になっていく。心と身体がちぐはぐで、まるで自分じゃないみたいだ。それなのにこの塞ぎきった空気は、僕を包み込みちくちくと肌を刺す。まるで現実感が無い。いや、当然だ。これは夢なのだ。これは、僕の、夢の世界、なのだ。
 突然、早坂が微笑んだ。長い前髪の奥の二重がゆっくりと細められ、形の良い彼女の唇は緩やかな弧を描く。緩慢な仕草で上げられた右手、白い肩の出たワンピースの裾が風も無いのに揺れる。
 薄い青い霧に包まれた世界で、静かに手を振り微笑む早坂。それだけがやけに鮮明で、僕の瞼の裏に焼き付く。
「夢の中の僕」は、彼女に向かって手を伸ばした。肩を軸にした時計の針みたいに、真っ直ぐに、ゆっくりと、彼女へと向けられる手の平。
 まるでそれに答えるかの如く、微かに開いた彼女の唇。発せられた声は現実の、無機質な着メロに掻き消された午前九時。

 死因は、薬物の大量摂取による急性薬物中毒だったらしい。後から聞いた話では、彼女は以前から引き篭もりがちで、一年以上溜め続けた様々な薬品を、昨晩一気に咀嚼したそうだ。
 白と黒で染められた葬儀場の空気は、穏かなくせにぎこちなく麻痺して、僕の喉を締め付ける。白い顔をした早坂の髪は、蛍光灯の光を反射して、ただただ黒く光った。
 彼女は白いワンピースに身を包み、棺の中で遺品に囲まれ眠る。その両腕にはたくさんの、躊躇い傷の跡があった。あの日の放課後に読んでいた、ブックカバーのような無作為なストライプ。
 肩が露見した白いワンピース。堂々とそれを見せ付ける、彼女は確かに生きていた。例えそれが過去形になってしまったとしても、早坂藍は、確かに生きていた。僕はそれを知っている。
 白い頬にはうっすらと朱色の死に化粧が浮かぶ。僕は、そっと、額に触れる。初めて触れた彼女はとても、とても冷たくて、僕に涙は無い。
 ほんの少しだけ身を屈めると、ほんの少しだけ近づく僕らの距離。額に触れた手でそっと、柔らかい髪を撫で上げる。
 僕は頭を下げたまま、黙って両目を閉じた。
 それで彼女に僕の持ってる全ての敬意を捧げたつもりだ。彼女について、何一つ知らない僕の、利己的だけども浮かんだ想いは、忘れる前にちゃんと、彼女に伝えたつもりでいる。
 そしてただ、あの落陽が射す青い放課後に、彼女が読んでた本の名を僕は今でも知りたいと思うのだ。

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