翳して掴むは太陽の光欠けてゆくは無垢さの破片

耳の奥にこびりついて、私を放してくれない。
それは悪いけれど、たちの悪いCMソングなんかと一緒で、朝からずっと耳の奥から血液に乗って、脳味噌の中を循環していく。
そして残るのは重みと、慢性的な肩こりがほんの少しだけ解消されたかの様な錯覚と、強いて言えば、落とした事が無い漢字の小テストにやけに大きく付いた赤い丸。
六点以下は、再テスト。いやはや七点程足りないらしい。
投遣りに吐いた溜息は一瞬白く宙を濁してそれから排気ガスに消えていった。
私はカーディガンのポケットに、靴下の中に、四つ折りを更に半分に折った正方形状の千円札を入れて歩くのが癖らしい。
その上から押し込んだ携帯や、見栄えだけがいい大きな財布をその上から押し込む所為で、どうやら何処かに落としてきたようだ。
アスファルトの上を滑るようにして飛ばされた、モスグリーンの枯葉を踏んだら、乾いた音に寒気がした。

「モぉミジさぁん、帰ってきて下さぁい」

私は酷く、自分でもわかる位ゆっくりと、故意にゆっくりと、高く突き抜ける声に顔を向けた。
季節一年以上先取り。大きく肩を出した白いセーターに、それに隠れてしまいそうな短い短いスカートに、脹脛より短いブーツ。ウェーブがかかったやけに色素の薄い髪が、木枯らしに揺れてふわふわと光った。

「またトリップ?」

形の良い唇に、緩やかな弧を浮かべて、彼女は笑った。その隣をまたトラックが走り去ったから、更に大きく金髪が揺れた。耳元に手を当てて、乱れた髪を直す。その奥の車道一本隔てた向こう岸で、ニ、三人の男達が、そんな彼女を指差して、小さく口が動いた気がした。それから彼らは確実に笑った。
彼女は私がぼーっとしている事を、「トリップ」と呼ぶ。
自己の世界への小旅行。案外悪い気はしない。

「そんなだから、モミジは何考えてるんだかわからないって、皆に言われちゃうんだよ」
「カエデには、それは関係無いよ」

私は眠くて目を擦る。カエデが肩を竦めた。
風が冷たい。青空が高くて太陽が小さい。落葉樹が中途半端に裸になり、街中に赤やオレンジの所謂暖色が溢れる。澄んだ風と雑踏のずっとずっと向こうから、石焼芋を売る音が聞こえて、私は明日は雨が降るだろうと、一人勝手に予測した。白い鱗雲が西から東へと、広い範囲で広がって見せる。
私はこの季節が、嫌いではない。

「考え事をしてたの」
「考え事?」
「うん」

コーンスープの空き缶を、軽く爪先で蹴った。中身が未だ残っていたらしく、何処と無く鈍い音がして、少しばかり気が重くなった。
空気が冷たい。鼻の奥までを一気に貫く。低いアーケードが空を隠して、寂れた町並みが余計に灰色を増した気がした。走り去る車の色までも、落ちそうな枯葉を髣髴させた。
普段より歩調を緩めて歩く。かといって、別に、カエデに合わせている訳ではない。

「考え事って、何?」

また、進学の事とか? カエデが眩しそうに目を細めた。本人は気付いていないのだろうが、無意識の自嘲と、有意識の冷やかしを模した冗句が相変わらずそれには含まれている。
私は一度足元を見て、平べったい自分のローファーが、大分古い事を改めて確認した。それから更に顎を少し引いて、自分の灰色の制服を見たら、頬に掛かった黒い髪の毛が勝手に視界に入った。

「……頭の中で、さっきから、同じ曲がぐるぐる回ってる」
「同じ曲?」
「うん」
「誰の? それとも何かのCM?」
「違うよ。曲名はわかってるんだ」
「なぁんだ」
「それをずっと、考えてた」

カエデが欠伸を噛み殺して前を向いた。頬のチークの乗りが悪そうで、よく見ると目元に薄い隈が差して見える。単なる気の所為だろうか。
唇を何度か舐めて、再びカエデが私を向いた。微かに首を傾げる。

「バッハの、『G線上のマリア』。カエデも知ってるでしょ」
「知らないよ」
「知ってるよ。有名だもの」
「知らない。どんなのよ」

頑なに知らないとばかり繰返す、カエデに私は渋々と口を開いた。風に咥内が乾燥していく。口の端の皮が少しばかり張り裂けそうになった。
外気に喉が震えて、私は両目を細める。
口の隙間から何処と無く、嘲笑めいた息が漏れ、それに一点「ら」の字だけ、乗せて私は歌にした。

「あぁ、それ。卒業式で、聞いたやつ」
「そう、それ」
「モミジが代表で、答辞を読んだ時に流れてたのね」
「そうだっけ」
「うん。あたし、覚えてるからね。そこは。ちゃんと」

カエデが前を向いた。私は足を止めた。横断歩道に差し掛かったから、カエデは赤い信号をじっと見ている。
目の前を横切る車の向こうに赤い光がちらちらと掠める。こういう時、何と無く、前へと引っ張られそうになる。
視界の端に、金色がまた揺れた。西日が目に痛い。赤い光が強すぎて、信号の色が見えない。

「カエデは確か、私服で参加したんだよね」
「うん。卒業式はね。赤いチェックのスカートって、決めてたからさ」
「お母さんは、二人とも、同じ服を着せたかったみたいだよ」
「知ってるけれど、あたし、私立受験しなかったから。どっちにしろ制服は無理だったねェ」
「赤いスカートなんて、私は似合わないもんね」
「うん」

モミジに赤は似合わないよ。カエデが呟いた。
私は頷いた。瞼が重い気がした。明日、漢字の再テストがあるが、今日は早く眠りたい気分だった。
車の流れが止まった。排気ガスがその場に漂う。騒音の中ででも、確かに遠く聞こえていた、焼芋屋さんの音が止まった。カエデが一歩白線に踏み出す。

「晩ご飯、クリームコロッケ食べたいよ」

私は目を閉じた。そのまま、顎を引いて頷く。目を開くと同時に顔を上げたら、カエデは半歩先にいた。白線の先に踏み出す。
街の雑踏が遠くに聞こえる。
漂う排気ガスの向こう側に、冷たい風が吹いた。
それは火照った頬を掠めて、私は明日は雨が降ればいいと、一人勝手に思った。

 

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