玖、代償メランコリ

 従姉妹のお姉さんが死んだ。
 夕方から夜の間中、沢山の人が出入りする。私はロビーの長椅子に腰掛けて、鳴らない携帯電話を片手に黙ってそれを眺めていた。
 親しくして貰っていたはずのお姉さん。何故か涙は出なかった。頭の中がぐるぐると回る、ピンクのうさぎが耳元で囁く。「これは悪い夢。」
 葬儀場のイメージは白と黒と灰色ばかりの中どこもかしこもあの肌に纏わりつくような線香の香りに満ちているものとばかり思っていたが、それはあからさまな嘘だった。そこは私の想像以上に、ずっと、不快な程、和やかな空気に包まれていた。
 多少酒が入って浮ついている叔父。次々と咀嚼されていく寿司に菓子に飲料。遠方の親戚との久々の再会は続く会話に華を添え、私に場所を錯覚させる。笑い声は薄く遠くに響いて聞こえ、お姉さんの事なんかとっくに何処かへ消え失せてしまったようだ。
 みんな、喜んでるみたい。
 そう思ってしまった私は、不謹慎なんだろうか。
 そしていつか私もそうやって消えるのか、そう考えると、何処か虚しい世の中の無常さを感じた。
 マナーモードにした携帯が、不意に震えたのは人も疎らになった頃だった。
 メール着信、十二通。その異常な量さえ、麻痺した脳味噌はすんなりと受け入れる。羅列する無作為に振り分けられた半角英数字が混在するアドレスは、全て昨日登録したばかりの出会い系サイトからのメールだった。

 ―― Mr.K 様からの申し込みです。初めまして二七歳、医者の卵です。
 ―― 白昼夢 様からの申し込みです。メ~ルしたよー。(>ω<)ヨロピク  ―― ダンディ内藤 様からの申し込みです。君、Cカップ以上ある?  ずらりとメールボックスを埋めたそれらに片っ端から目を通す。  削除。削除。削除。削除。削除。削除。削除。削除。削除。削除。削除。削除。  全て流し読み、全て削除した。白い壁にもたれかかって、葬儀場の天井を眺めたら急に泣きたくなった。  お姉さんはもういないのと、やっとその時わかった気がした。奥歯を噛み締めて飲み込んだ唾液は、普段よりずっとしょっぱい味がした。携帯電話を折りたたみ、何もかも手放したくなって湿った溜息を宙に吐き出した。力無く放り出した四肢は、指先から痺れて何も感じなくなっていた。 「さつき」  名前を呼ばれたので首だけ向けた。おばあちゃんが、オレンジジュースの缶を両手にいつの間にか傍に立っていた。……全然気付かなかった。 「どしはりよたん? 葉月ばぁ」 「さっきからずっとそぉしてぼーっとしとるん見て、なんか食わんとさつきも病気なんますえ?」 「なんか言うてもなんも食う気なれんもん……、ほおといてぇ」 「あっちには、おでんもあんとすに?」 「ええわぁ、葉月ばぁのおでんて、何でかにぬきばっかしか入ってひんし。うち茹で卵て嫌いや」  他愛の無い会話、遮る様に再び携帯電話が震えた。ヴーッ、ヴーッ、と響く重低音が長椅子を軋ませる。 「何や、それ」 「んー、メールやろ」 「メール? 友達かい?」 「…………、彼氏」 「カラシ?」 「ちゃうわ、カレシや。カ・レ・シ」  口を零れた些細な見栄は、さらりと冗談に流されてばぁちゃんはニッと入れ歯を見せて笑う。何もかもが見透かされている気がして、私はただ眉を下げて笑うしかなかった。 「さつきも、もうそないな年なりはったんやねぇ。十七なりますえ?」  小さく頷く。しわくちゃの手の平が、私の頭を優しく撫でた。 「さつきはほんま、えろぅ美人なんでっしゃろに……きっと。それはうちが保障しはりますわ」  子供の体温は高いというけれど、それは子供が高いんじゃなくて屈託の無い温もりが直に他人に届くから温かいんじゃないかな。  私は冷え性で痺れた指先で、ばぁちゃんのその手をそっと握った。そっと握ったつもりでいた。  ばぁちゃんはそれ以上何も言わないで、黙って強く握り返した。オレンジジュースの缶がぽつんと二つ、長椅子の隅で並んでいたのが視界の端に滲んで映った。 「どうして家の家系は……」 「柚ちゃんの次は、さくらさんが……」 「全く、何かに呪われているんじゃないのか……」  ぼそぼそと囁く大人を他所に、私はまた一人長椅子に身体を預ける。 「柚も、さくらさんも、もっと生きていたかったでしょうに……っ!」  嗚咽混じりに喉の奥から搾り出す様な声を上げるのは死んだ従妹の母親。二人目の子供を身ごもったらしくて、たいそう立派なその腹部を抱え込むように身を屈めている。傍らで支えてる、清楚な男の人がその夫であるなのは言うまでもない。 「どうして若い人ばかりが……! 柚だって、柚だって、代わってあげられるものなら私が……!」 「ゆかり、やめないか。今は柚の事じゃないだろう」  旦那さんに支えられるようにして御焼香へと引きずられていく、「叔母さん」にあたる人。  どうして若い人ばかりが……? そんなの寿命だったからだよ。  年齢序列でいくんなら、お姉ちゃんよりもあんたがさっさと……――  そう思った。無意識にそう思っていた。一瞬でもそう思っていた自分に、込み上げたのは嫌悪と吐き気。それを一瞬で凍りつかるかの様にまた、携帯のバイブレーダーが振るえて意識がそっちに取られる。  そうだよ、あんたが先に逝っちゃえばいいんだ……私の無意識は強く願う。そんな事は最低だ、不謹慎だと喚きたてる理性など押し殺してしまう程に強く、強く。  私の中は今、きっとどす黒い。排水溝のヘドロより、色んな色を混ぜすぎて結局ぐちゃぐちゃになってしまった絵の具より、何よりずっと汚い感情が、どろどろと居場所を失くして何処にも行けずにヘモグロビンと酸素に溶けて、爪先から脳味噌までを循環している。巡りめぐっている。  引きずられていく叔母さん。会場に入る前に私の前を横切る。  脇を支える旦那さん。名前は昭彦さんという。叔母さんの肩に手を置き、大きなお腹をさりげなくかばう様に逆の手を腰へと回してゆっくり歩幅を縮めて歩いている。不意に私と視線が重なって、困ったように眉尻を下げて微笑んだ。今にも泣き出しそうな、あまりに優しすぎる瞳だった。 「さつきちゃん、随分大きくなったね」  あああ。私はまだ報われはしないんだ。  長椅子に投げ出された私の携帯は、唐突にまた低い音を立てて震え、勝手に床へとボトリと落ちた。

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