雨下、蛹依り羽化

僕が突っ立っていた場所は、築数十年程にもなろう平屋建ての小さな小さな家の前で、僕にはそれ以前の記憶が無い。
静かな雨が降る薄暗い日で、周りには誰も大人が居ない。もちろん子供だっていない。
周りの家には明かりが無くて、一応民家なんだろうけれどまるで何処かの國で見捨てられた野良猫のダンボールみたいだった。
僕の身体は、不思議な程重かった。奇怪なゼリーに包まれたような、そんな錯覚である。透明なゼリーは僕の肺から溢れ零れて口を塞いだ。雨垂れが土を打つ音が、フィルターを濾して耳まで届く。
それはまるで、例えるなら羊水の中の赤子になった気分であった。不愉快極まりない。
僕は上へ、上へと上がる。ゼリーは僕の全身を包む。より上へ、上へ、上へと浮かんでいく。浮遊していく。
そして僕は、漠然と雨の中立ち竦む少年の背中を見ていたのである。
黒い空から針のような雨が、咲いたばかりの雛罌粟の花を突き刺すかの如くそれはそれは優しく、静かに落ちていた日だった。
貴方に名前をあげましょう。
彼女はそう言って微笑んだ。枕元の蝋燭が、白いその顔に微かな朱を添えた。
僕は畳に胡座で座る。座り直す。
彼女の瞳は淡いグレーで、僕に向けられて、そして閉じられた。
嗚呼、もう見えてはいないんだ。と、思った。
十畳も無い狭く小さな和室は、僕と横たわる彼女の他に小さな蝋燭が一本あるだけで、殺風景で哀しい程淡い光に包まれていた。

「形見の箪笥は、売りました」

彼女は微かな声で呟き、そして大きく息を吸い込む。
布団越しに薄いその胸が、ほんの少しだけ膨らんで、それからゆっくり沈んだ。
もう直ぐ逝くな。と思った。

「貴方が好きだと言った振袖も、何度も小指をぶつけた戸棚も。あの三面鏡の前で、貴方が髪を梳いてくれた事、昨日のように、思い出します」

彼女の声は小さかった。しかしとてもよく澄んでいて、僕の耳奥で木霊した。

「婚約指輪を、はめていない」

僕は言った。先日僕が彼女に贈った、合金に小さな硝子玉の付いた見るからに安物の指輪だ。彼女が床に伏すまでは――正確には最後に顔を合わせた時までは確実に――その骨と皮で出来た細い薬指に控えめながらも確かに自己を主張していたそれが無い。
僕は彼女を見つめた。
彼女は困ったように眉を下げた。薄い胸が、更に少し下がった。それからはにかんだように笑った。

「あれは、捨てました」

僕は頷いた。当然だと思った。

「名前も知らない、空き地に捨てました。今にきっと、烏が餌と間違えて、飲み込み何処かへ行く事でしょう」

彼女の声の調子が、一段と高ぶった。虚ろな双眸を少年に向ける。少年の背中は、ぴくりとも動かない。
彼女の瞳は漆黒、中央部分が薄っすらと淡く濁った白に犯されていた。既に何も見えていないのだろう。少年は、黙って彼女の瞳を見下ろしていた。

「私は烏になりましょう。墓場荒らしと罵られても、蔑まれても、嫌われても。私は烏になりましょう。そして、貴方が私にくれた数々の、―――を、探しに行きます」

少年は、そこでやっと小さく顎を引く。目頭がぴくぴくと震えていた。瞬きするのを懸命に、肩を震わせ堪えていた。

「だから」

彼女は微笑んだ。少年は立ち上がる。
少年は振り返らない。彼女は虚ろに天井を見上げた。扉の閉まる音がした。溶けた蝋燭がぽたりと落ちて、汚れた畳に小さな染みを残した。

 

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