赤い深海フラッシュバック

中学校からは、走って帰ってきた。家に着くなりタダイマも言わずそのまま自室に逃げ込んだ。教科書だの弁当箱が入ったスクールザックを思い切り机の側面に投げつけて、制服のままでベッドに倒れ付す。……そこから先は、よく覚えていない。

「小夜子、お風呂沸いたから先に入っちゃってぇー」

気がつけば、母の声。ドア越しに小夜子の耳へと届き静かに閉じた瞼を開く。嫌な鈍痛がこめかみに響いた。それを堪えてゆっくりと身を起こす。
多少皺になったセーラー服、パートに出ているはずの母親、重苦しい頭痛と夕食の香り。
未だ朦朧とした意識のままで小夜子はベッドから立ち上がる。一瞬の眩暈に足が縺れ、その場にへたり込む。ふと気付くと、ドアの傍にはいつの間にか洗濯物が綺麗に整えられて置かれていた。きっと小夜子が眠っている間に、帰ってきた母が黙って運び込んでおいてくれたのだろう。四つん這いになってそれらに近づく。タオルとパジャマと下着を数点。胸に抱くと未だほんのりと微かなお日様の残り香がした。
気の乗らない足で風呂場へと向かい、脱衣所へと続くドアを開く。むわっとした湿気と独特の熱気に加えて、今日は噎せ返る様な不快な甘い異臭がした。まるで小夜子の入室を拒むかのように一気に流れ出てくる。いつの間にかに小夜子の両足は、脱衣所を目の前に怯えて立ち竦んでいた。

「素敵な香りでしょー? 野イチゴの入浴剤、春夏限定新発売なんだって」

能天気な母の声。小夜子の真横を通り過ぎ、台所へと消えていく母もその口が紡いだ何気無い言葉も、小夜子の耳には届かなかった。受け付けなかった、といった方が正しいのかも知れない。ただただ脳裏に蘇るのは、屈辱的な一日の数々ばかりで。

「もうすぐ晩ご飯も出来るんだから、いつもみたいに長湯しないでよ?」

悪意の無い声が小夜子の背中を押し、急かす。なんで、どうして、よりにもよって、今に……。頭の中を錯綜する疑問詞、単語、誰かの笑い声。突然耳を塞ぎたくなる衝動を抑えると、棒切れのような右足が音も無く前へと振って下ろされ、タオル地のバスマットを踏みしめた。
浴室は、なんとも酷い有様だった。充満する甘ったるい野イチゴ臭とビー球を光に透かしたような濁りの無いベリーピンクが小夜子を迎え入れる。込み上げた吐き気は、黙って飲み込んだ。軽く身体を洗い流したシャワーの色の無いお湯と床に弾ける透明な飛沫に、何故だか酷く切なくなった。
湯舟へと沈み込んでいく右足。指の隙間から、足の脇から足の甲へと足首へ、小夜子を包み込むベリーピンクのお湯。肩まで浸かると、溜息が零れた。その度に胸が締め付けられる。一日の出来事がフラッシュバックして襲いかかってきた。
朝、登校して内履きへと履き替える何気無い日常は、ぐにゃりとした違和感に何の前触れも無く掻き消された。靴下越しに感じる、粘ついたゲル状の、何か。恐る恐る引き抜いた足の裏は鮮明な赤一色で、所々に黒い粒が僅かに混じっていた。溢れる甘い臭いと、おのずと集まる視線。
そういえば昨日の給食は食パンとジャム……。
考えた事や感じた事、色々あったはずなのに確かに今でも思い出せるのはたったこれだけだった。
スリッパを借りに職員室へと向かう途中、裸足で歩いた朝の廊下はヒタヒタと嘲笑うような音を立て、小夜子は切り取って貼られた写真の様に、冷ややかにそして確実に不自然に周囲から浮いていた。

「せんせーい、甘い匂いがしまーす」
「誰かが香水つけて学校来たんじゃないんですかぁー?」

女子生徒の甲高い愉しげな声が朝のHRの中響く。極少数派の大人しい男子と小夜子と親しい数人の女子だけが黙ってそれを聞いていた。その中の誰一人として、口を開く者はいなかった。教卓の一番前の席で小さな身体を一層縮こませ、小夜子は俯き固く目を瞑る。両目を閉じていると解る。くすくすと嘲笑う首謀犯であろう女子生徒らの姿、にやにやとそれを遠くから眺める男子生徒たち、ただ同情ばかりを投げかける友達……背中に感じるのは突き刺さるような無数の視線、肌を鳥立たせる。
担任は「ハァ……」といかにも面倒そうな溜息を吐き、それは小夜子の耳に入って喉へと詰まり、そして心臓を押し上げた。

「……なんで……?」

その時、口から出てくれなかった台詞。甘い蒸気に包まれた狭い浴室で今更響き渡る。身に覚えの無い突然の嫌がらせ、誰も助けてくれない教室、担任のあの煩わしげな態度……。
バシャンと水面を思い切り叩いた。ピンクの水飛沫が上がって顔にかかり嗚咽が込み上げる。気持ち悪い。頬をゆっくりと伝い落ちていく水滴に、発狂しそうな悲鳴さえ出掛かって、それは喉の奥で結局言葉にならないまま終わる。どうしようもない、頭の中を蟲が這いずり回っているみたいに不愉快な感情。殺したい。みんなも、私も、皆殺したい。初めて人を殺したいと思った。こんな気持ちも今日の全ても何もかも抹殺して吐いて捨てたい。捨ててしまいたい。
傍らの不意に目に付いた、ピンクの安全剃刀に手を伸ばす。無意識に握り締めていた、自分自身に酷く怯えた。今から自分のする行為を想像して喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。
でも内心、絶対に、気持ちは楽になれるという確信。
右手でしっかりと柄を握り締め、安全剃刀の刃を左の手首へと当てる。震える力を抑えようとすると余計に右手は大きく震えた。ゆっくりと、刃を立て押し付け、そして引き裂く。薄赤い蚯蚓腫れが一本、微かに手首に跡を残した。所々から微かに滲み出る血液は煙の様に湯に溶けていく。押し込めていた小夜子の何かが突然弾けて溢れ返って、ベリーピンクの湯舟の中で左手首を握り締め、小夜子は声を殺して泣いた。

 

著作権表示

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
スポンサーリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です