梅雨前線

雨垂れが屋根を打つ音で私はふいに目を覚ました。気象予報士という仕事柄か(家内には単なる片づけ下手だとも言われるが)書籍やデータ表やらが机や床に散らばった部屋は未だ薄暗く、精々九時過ぎだろうと思っていた日曜は、既に正午を回っていて些か驚いた。

今頃あの真っ黒な雲の上で太陽は燦々と、緩やかに西へ落ちていく、そんな準備をしている頃だろう。あの雲の上は明るいのだろうか。空はどれほど青いのだろう。灰色の天井に何気なく両手を伸ばし、大きな欠伸を放つ。好い加減そろそろ職業病だと思わず笑みが零れた。
この雨はまだ、少なくとも降ったり止んだりを二週間半は続けるだろう。何処かではダムが溢れるかもしれないし、何処かでは花が開くのかもしれない。それでは一体自分に何が出来るだろうかといえば、精々データと大気を見比べて予測する事程度でしかないのだが、それでも私は自分の仕事に対し誇りを持っていたし第一にこの仕事自体が私には楽しくて仕方が無かった。そしてふと、自分も案外利己的な人間だなと気付く。
さてと、こうしていつまでも布団に潜って物思いに耽っていると、我が家にいつ家内の雷が落ちるか知れない。流石にこればかりはいくら気象予報士の私であるとはいえ、一週間も二週間も前から予測する事は全く不可能だ。重い上体をゆっくりと起こし、先程天井へと伸ばした両手を真っ直ぐ正面へと伸ばす。それからまた首を回してみたり、四十肩を上げ下げしてみたりと簡単なストレッチをした後に、フローリングへ足を伸ばした。冷たい床は微かな湿気を帯びていて、普段より滑りやすくなっていた。
そろそろ五十代も折り返し地点を目の前にして、雨の日に転んで怪我をしただなど、あったとしたらそれこそ失笑ものだ。カーテンを閉めたまま蛍光灯の紐を引く。ニ、三度の点滅の後に広がる白い光に双眸を細めた。そして、やはり、私は日光の方が好きだなとしみじみ感じるのだった。穏かでそして気紛れで、柔らかく時には熱く激しく何もかもを包み込む様なあの光を。そう思うと古代、太陽を神に例えたというギリシャの名も無い人間はさぞ偉大な人物だったのであろう。
明るく照らされた室内は、先程よりもずっと、モノというモノが散らばって見えた。ベッドや本棚、部屋の隅々を見渡してみると改めて埃も目立つ事に気付く。苦笑とも自嘲とも取れない溜息がつい唇から零れた。この部屋をただ眺めているだけで一層気分は滅入りそうになる。
そうだ、せっかくだから掃除をしよう。そう思い付く迄に、大した時間は要さなかった。
まずは床に散らばる書類を片付ける。ベッドの上へと次々と放り投げていった。細々としたデータ類は、机の上に紛失しないように丁寧に重ねた。脱ぎっぱなしの靴下やワイシャツ――一体いつ着たものだっただろう――纏めてドアの脇に積んでおき、一通り、床に人が入れるスペースを確保する。

「さてと……次は……」

ベッド下から薄汚れた片方だけの靴下の引きずり出し洗濯物の山へ投げ遣ると大きな息が口をついた。大量の書籍やら何やらにすっかり占領されてしまったベッドのほんの僅かな片隅へ腰掛ける。心臓が血液を送る音を、久し振りに耳元で聞いた。
僅かな休息を挟んだ後は、この山となり動かない本たちを収める場所を確保してやらないとな……。
それなりに広い書斎を兼ねた寝室の三分の一を占領する本棚に、ゆっくりと立ち上がって歩み寄る。何をする訳でもない。取り合えず、今並んでいる本の背表紙でも眺めてみた。手持ち無沙汰な両手は無意識に、後ろで緩く組まれていた。
『年間降水量総合 200X年度改正版』『自然による災害』『雑学! 雲の流れと明日の天気』……仕事に関係のある本の中にちらほらと見え隠れする、個人趣味。自然と口許は綻んでいき、次々と棚を順にみているうちに今度は古びた参考書が顔を見せる。もう何十年と前の彼らは埃と手垢に塗れ色褪せ、それでも憮然とした態度で本棚の一番下……最も目のいかない場所に立っていた。地学、数学、物理、地理。苦手だったのは古典だったなと、かつての日々が懐かしく徐々に脳裏に蘇ってくる。
厚い参考書の隙間から一冊の古びたノートを見つけたのはその時だった。私はそれの存在を今まで忘れる事は無かったが、未だに残っていた事実には驚いた。薄っぺらいB5A罫の青かったはずのノートは今や灰色がかった濃紺に近く、手に取り恐る恐る開く。
高校時代、虐められっ子だった私の、拙い日記帳だった。

『何故僕は生きるのだろうか。何故僕はいじめられるのだろうか。考えるのはいつもそればかりだ。あいつらにこのまま僕の人生は潰されてしまうんだろうか。もうだめだ、もう無理だと僕は何度と口にしただろう。それでも生きているのは何故だろう』

『僕は必要ない人間だと思う。そう思う僕はとても弱くて、そして下らない存在である』

『何故放っておいてくれないんだろう。なんで僕だけがこんな目に遭う必要があるのか。あいつらは嫌いだ。助けてくれない周りも嫌いだ。何も出来ない自分が嫌いだ。一番大嫌いだ』

『辛い時、泣いてはいけない。僕は絶対あいつらの前で涙を見せてはいけないのだ。それだとあいつらに負けた事になる。泣いてはいけない。でももう辛い』

『死んでしまいたい。疲れたよ、神様』

『クラス中が僕を否定 てたのしんで る。特に原田だ あいつはあたまがいかれ いる。狂ってしまっていると か思えない。先生も 生だ こんな深こくな問題にも関わらず「また全統模試 四位だったわね」など  全く無関係極ま ない返事を返された。ショック った。あの人を頼るのはやめにしよう。僕はいつ死んでもい  』

『今に見ていろ
僕を見捨てた全ての愚か者ども
必ず、見返してやる
今に必ず見返してやる』

日付も無く、時に水性インクが涙に滲んで読めない部分が目立つ日記帳は最後、頑なな決意じみた言葉のたった四行の殴り書きで終わっていた。
思い出される、数々の思い出。内履きは女子トイレへと投げ捨てられ、教科書や辞書は買い換える度に破り捨てられた。担任に至っては我関せずの態度を結局卒業まで崩さなかったあの日々。
トントントン、と雨垂れが屋根を打つ音が静かに部屋に響き渡る。澄んだ冷たい空気がそっと鼻から肺へと満ちていく。
私は、何故か、笑みを零した。眉尻を下げて、思わず声を上げずに笑った。どうして笑えたのかはわからないのだが、古い記憶はノートと共に私の中でも大分色褪せていて、思い出が私を傷付ける事はなかった。
私を虐める主犯格だった原田は今頃何をしているのだろう。先生はとっくに退職していて、もうそれなりにお年を召しているのには違いない。同じクラスだった他の皆は、元気に過ごしているのだろうか。
過去の事実は思い出として、いつまでも私の中で消える事はない。だがしかし、私はその後数十年とたった今でも、『僕を見捨てた全ての愚か者ども』に何一つとして仕返しもしてないし、それどころか完全に記憶の隅へと追いやってしまっていた。
ノートを閉じて、そのまま元の場所へ戻してやる。長年彼の居場所であった、湿気の溜まりやすい本棚の一番下の段へと。
あの日の『僕』に、私がかけてあげれる台詞など決してこの世にないだろう。
或いはきっと、この世のどんな励ましの言葉も『僕』の耳は決して受け付ける事が出来ないだろう。
ただ一つ、気象予報士の今の私から過去の『僕』へ……。
一般的に梅雨前線や秋雨前線と呼ばれる停滞前線は、寒冷前線に温暖前線が重なった形になったものを指し、停滞というその名の通りとても長い間雨を降らせる。
その代わり、梅雨前線が去った後には、穏かで熱い陽射しが注ぐ、颯爽とした夏が来るものだ。

 

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