1話 たぬきのねどこ

「娘よ、人間と動物の違いはなんだと思う?」
 なんの脈絡もなく父は尋ねた。秋も深まってやや肌寒くなってきた時期だ。
 その時のわたくしこと高尾たぬ子はちょうど口の中いっぱいにどんぐりを頬張っていた。父の目がやけに真剣で、食卓におかれたあけびも栗も山菜も、なんだか居心地が悪そうにしていた。湿気った空気が鼻に障る。
「脳味噌と実行力」
 たぬ子は我関せずといった態度で短く答え、また口の中がいっぱいになるまで食事を取りはじめる。我関せずというよりも、「触ラヌ狸ニ祟リ無シ」だ。それに、遠くない冬眠に備えて、しっかりと栄養を蓄えておかねばならなかった。
 我々たぬきは基本的に冬眠をしない。だがどうしても冬の山は食事が限られるから、狭い穴ぐらの中に引きこもることになる。夏よりもだいぶ「デブって」いないと、冬の間に餓死してしまう。音もなく降る深雪はその幻想的な美しさと共に容赦のない環境を押し付けてくる。だから元々引きこもり気質で「ぽちゃって」いるたぬ子でも、春になったら理想体重を大きく下回るモデル体型と化しているのが毎年の事だ。
 山々に生息するものたちにとって、冬は選択のときであり、節目であり、三途の川でもある。
 たぬき一族のように秋の間に食糧を備蓄し、脂肪を貯めこんで生き抜くもの。
 樹木三本隣のリス家のように静かに眠るもの。
 四ツ池の亀爺のように殆ど仮死に近い状態まで活動を減らすもの。
 この山の民はこの冬でどれだけ命を落とすのだろう。冬が終わったらこの山にはいくつの命が生まれるだろう。
 これは生と死とを繰り返す、人里に近い山中の話。
「今日、人間の本を読んだ」
 父、たぬ蔵が口を開いた。少し固い表情で、視線は食卓に向けたまま。でもその目にはあけびも栗もねずみも、映ってはいない、そんな感じで。
 最近のたぬきは意外にも博学である。晴耕雨読に通じ、人間に勝るとも劣らない理解力を示す。たぬ蔵は数年前に山中会の役員を務めた経歴があり、この界隈では「見た目も仕事もスマートな高尾たぬ蔵」の名で知られている。現在は山中役場の土木課に勤務しており、もう40年ほどで定年退職を迎えるほどよい中年の化け狸であった。
 そんなたぬ蔵と妻・たぬ江の間に生まれたたぬ子であるが、残念なことに、非常に残念なことに、たぬ蔵の賢さもたぬ江の社交性もどこに落としてきたのかと哀れむばかりの引きこもり狸である。何匹かの理解ある友人に恵まれるもこのままでは嫁入りは絶望的だし、たぬ蔵・たぬ江が他界した後に一匹で生活することもできぬのではないかと思われる。このままでは山中の税金を利用しての生活保護も嬉々として受け入れるに違いない。役所勤めのたぬ蔵にとってそれはなんとも居心地の悪いものだった。なんとかして、この無精な娘を社会復帰させる手段はなかろうか。
 たぬ蔵はしっかりと読み込んだ本の内容をかいつまんで語る。
「動植物と人間を区切るとき、そこには人間の可能性への冒涜があるという」
「冒涜?」
 たぬ子はやはり全く興味がない様子で、食事を続けながら適当な相槌を打つ。母・たぬ江はというとたぬ蔵の話に黙ってに耳を傾けていた。
「人間にとってみれば、自分たちを俺らたぬきやらリスやら亀なんぞと一緒にすんな、という意味だ。プライドに任せて言っているのさ、『人間の存在には、動植物と一線を画した可能性があるんだ』ってな」
 そこまで言って、たぬ蔵は少しばかり自虐的に鼻で笑った。
「人間は人間同士で、他者と複雑な関係性を持ち、道徳を持ち、意識を持ち、死生観を持ち、自己決定の意思を持ち、理想の概念を持つらしい」
 たぬ蔵はそこで顔をあげてたぬ子を見た。たぬ子は我関せずといった態度からあからさまに視線をそらし、あけびに手を伸ばし、「わぁ、これ一番熟してるんじゃないの」と答えていた。明らかにこれ以上話し合いたくないようだ。
 たぬ子は察していた。
 たぬ蔵をこれ以上しゃべらせてはいけない。絶対に話に乗ってはいけない。これまで何度、この化け狸に騙されてきたのだと心の中で苦い思い出を踏み潰す。
 元々たぬ蔵には話を妙にくどくどしく語る癖があった。まどろっこしい遠回しに加えて、同じ部分を何度も繰り返し強調するのだ。結局いいように言いくるめられ、それによって幼い頃から何度面倒事に送り込まれたかと思うと心底面倒になる。耐え兼ねてたぬ江に苦情を申し立てても
「確かにちょっとウザいけど、それはお父さんの優しさなのよ」
 と、繰り返すばかりで取り付く島がない。
 たぬ蔵の持ってくる「面倒事」はたぬ子が季節を問わず引きこもりがちになった原因であり、娘が穴にこもればこもるほど、たぬ蔵は「面倒事」を持ってくるようになっていた。これはたぬ蔵なりに努力をした娘とのコミュニケーションであり、絶望的に不器用な愛し方だったのかもしれない。
 でも、それとこれとは話が違う。
「なあ、たぬ子。お父さんは、お前にもっと世界を見てほしいんだ」
 たぬ蔵が語りかける。
「俺は、お前は人間でいう『あすぺるがー』というものなんではないかと思っている。だから同じ山の ―― 例えばコン介君なんかと喧嘩が絶えないんじゃないか? お前と大ゲンカして町に下った猿山君もいるだろう?」
 突然出された友の名前に、たぬ子はぴくりと反応し、あからさまに眉を寄せる。
「なんでコン介の名前が出るのさ?」
「この山で、同年代の友達がいるのは至極珍しい。それほど裕福な場所ではないし、人間との距離も近い。昔みたいに、子どものときみたいに、もっと色んな動物たちと仲良くできないか?」
 コン介こと森山コン介はたぬ子の幼馴染だ。たぬ蔵がいうほど殺伐とした関係ではないが、なまじ付き合いが長いものだから歯に衣着せぬ会話が激烈化することも多い。
「お父さんはね、たぬ子にもっと広い視野を持ってもらいたいんだよ」
 たぬ江が柔らかく諭すような口調で続けた。
「たぬ子に、コン介君とも仲良くしてほしい。亀爺や熊雄さん、この山に住む皆と仲良く助け合って生きてほしい。その為に、もっと相手を思いやることや悔しくても我慢することを人間たちから学んでほしいんだ。―― そういうことでしょ、お父さん?」
 たぬ江がふっと笑った。
 たぬ子もたぬ蔵もどこか居心地が悪そうに、手元のどんぐりを見ているばかりだった。
 たぬ江は沈黙を了承と得たらしい。穏やかな笑みを携えて続ける。
「たぬ子、本格的に雪が降ると皆眠りにはいっちゃうから、今日明日中に挨拶回りをしてきなさい」
「へ?」
「コン介君が同行してくれるから、この冬が終わるまでに人間社会で少し勉強してきなさいな。あなただって立派な化け狸なんだから、ね」
 あ、これ、もう何を言っても無駄だ。たぬ子は気が遠くなった気がした。溜息さえでなかった。助けを求めるようにたぬ蔵に視線をやっても、今はもう一切口を開いてくれない。ひたすらどんぐりをもぐもぐと頬張っている。
「たぬ子、『狐七化け、狸八化け、貂の九化け、やれ恐ろしや』を知っているでしょう、我が家の家訓。貂に負けるのは仕方がないけど、狐よりも狸の方が上手なんだってコン介君相手に人里で証明しておいで」

 高尾たぬ子はこうして冬の東京都心に出ることになったのだった。
 それは2015年、秋も深まる頃のこと。遠くないうちに雪が降る。

【つづく】