2話 あいさつまわり

 わたくしこと高尾たぬ子は困惑していた。住み慣れた家から即刻、今すぐ、とっとと出ていけと言われたのである。
「その言い方は、なんだか少し違わないか」
 幼馴染の森山コン介はたぬ子の隣で苦笑いをした。
 人間が多いハイキングロードから丁度良く影になる樹木の元に2匹は並んで休んでいた。下山にあたり近所の皆に挨拶するため朝から揃って出歩いていたのだ。
「同じようなものだろ? 住み慣れた穴蔵から都会へ行って一人暮らしをしろ、なんて。しかもその告知が昨日の晩だ。心の整理も期待も覚悟も夢も希望も目的も新居も予定も計画も手続きも、何ひとつ準備できてやあしないんだぞ」
 たぬ子は恨みつらみを一気に吐き出して、それから大きく息を吸い、そして一気に吐き出した。
 コン介は冬毛に変わったしっぽをふわふわと動かしながら黙って彼女の愚痴を聞いていた。
「心の整理はそうかもしれないけど……本当に君は、本当に何も考えていないんだね」
「あ?」
 たぬ子は普段より1トーンは低い声で疑問符を投げつける。一方的な視線の先には幼馴染の狐が1匹。
「たぬ蔵さんがさ、俺の父さんと相談してたとか、むさしさんに話をつけて、テンさんまで動いている。『娘は俺が説得する』って言って。だから、本当にできていないのはさっき君が挙げたうちの心の整理と覚悟と夢と希望と目的と……あとなんだっけ?」
「……なに、説教?」
 苦虫にあたったみたいに顔をしかめて、申し訳程度の返しをする。
 たぬ子は思った。なーにが『娘は俺が説得する』だよ、と。最終的には母さんことたぬ江がニコニコしながら強引に丸め込んだだけじゃないか。父ことたぬ蔵の暗躍を知っても、感謝する気には全くなれなかった。また面倒事を持ち込みやがって。
 でも、たぬ子も馬鹿ではない。狸である。1匹の狸が仕事と生活の合間を縫って静かに動き回っていたことは動揺するのに十分だった。ましてや、山の自治を積極的に取り仕切っているムササビ一族の「武佐飛むさし」に話を通していたなんて。そして何らかの事情で山を下り、街で暮らす生き方を選んだ動物たちに様々な支援を行っている「板地テン」まで既に動いているとは。
 武佐飛むさしは実質的な山長だ。本来の山長はイシガメの亀爺だがあまりに高齢であるため、代わってむさしが山内会の仕切りを担当することが多い。たぬ子やコン介にとっては年の離れた兄貴分のような、積極的で活動的な獣だった。だからこそ、形がどうであれ彼が関わっているとなると下山の話を蹴りづらい。たぬ蔵はもしかしたらそこまで見抜いたうえで、むさしに声をかけたのかもしれない。山長の亀爺にではなく、むさしに直接。
 板地テンもまたたぬ子にとって断りづらい相手だった。彼女は山の麓で人間に化けて暮らしている。人間の諺に「狐七化け、狸八化け、貂九化け」というものがある。実際に貂は変化が上手く、山で獣が生まれたときには貂の一族が変化の手ほどきをしてくれることが習わしだ。そしてテンは、たぬ子にとっての「変化の先生」だった。幼い頃から不器用で飽き性で練習嫌いなたぬ子に対し怒らず慌てずじっくりと向き合って、少しずつ心を解いてくれた。人見知りならぬ獣見知りが激しかったたぬ子にとって尊敬できると感じた相手、それがテンだった。ちなみに彼女は小柄で非常に可愛らしい顔立ちだったので「ミス山中グランプリ」にも選ばれたのだが、人間の男性と恋に落ち、現在は4人の子供をもつ専業主婦兼案内屋だ。
 この2匹が関わっているとなると……。
 いると、なると……。
 なると……。
 ……。
 たぬ子はもう、悪態を吐く気になれなかった。辛うじて溜息なら出る。
「そんなに溜息ばっか吐いていると、幸運が逃げちゃうよ」
 何故かコン介は前向きだ。たぬ子が気落ちしているから、余計に明るく見える。
「なんであんたはそんなに元気なのさ」
「俺は君と違って、人間には割と好意を持っているんだ。最近都心の方では狐面が流行っているらしいんだよね。ちょっと欲しい。だって俺が狐面つけるってなかなかイカしてない?」
「なるほど。なかなかイカれているね」
 小さく頷き、たぬ子は立ち上がった。ぐーっと肩を上げて、冷えた体で伸びをする。
「まだ愚痴は山ほどあるけど、そろそろまた挨拶しにいくかな」
 だいぶ傾いた陽を見上げて呟いた。夜行性の動物たちが動き出すのはこれからだ。日中は日中で鳥や猿たちのところを回っていたから少しばかり眠気も覚える。
「そうだね。今日は、早く帰って眠りたいしね」
「あんまりグダグダしていると、冬眠に入っていて挨拶できなかったとかいうオチになりそうだし。……あれ、コン介。昼に四ツ池行ったとき、亀爺、寝てたんだよね?」
「ああ、うん。起こしたら悪いからあとでまた来ようって……まさか」
「……寝ている最中に叩き起こすのはいつだって最大の蛮行だけど、本格的に寝入ってからよりは遥かにマシだよね……?」
「……そうだね。じゃあ、亀爺のところから行こう」
 2匹は尻尾をふわりと揺らし、てとてとてとと駆けていったのだった。

【つづく】