4話 みおくり

 わたくしこと高尾たぬ子は拘束されていた。ミス山中コンテスト覇者等以下略なる師こと板地テンによって。
 テンはたぬ子の左手を高尾山頂へ向かう人混みのなかでやんわりと握っていた。よく晴れた秋と冬の境目のこと。
 数年ぶりに会うテンは、人間の形をしていた。たぬ子もまた今、人間の形をしている。テンの右手は小さくて温かかった。遠い昔、彼女が麓へ下りるより前にもこのように手を繋いだことがあった。あの時も彼女の手はやはり温かくて、小さくて、それから柔らかかった。
「懐かしいね。昔もこうして手を繋いで、人に混ざってたよね」
 テンは僅かに首を傾げて目を細め、本当に『しみじみと』言った。春の雨が冷え切った土のなかへと浸み込んでいくような『滲み染みと』した口調だった。昔もこうして。変化の訓練、そしてたぬ子の人見知り改善の為に、「二人」は何年も何年も前に、このような人混みの中で手を繋いで歩いた。それはまるで一種の冒険譚のようだったし、冒険譚と違いテンはたぬ子の手を絶対に放さなかった。
「……うん」
 同じようなことをぼそぼそと考えていたたぬ子であったが、その返事には元気が無い。凍えきった同意である。たぬ子が元々インドア派で内向的狸であるゆえか、或いは久方ぶりすぎる人間に気圧されてか、もしくはその両方か、たぬ子の肩も背中も天秤棒を通したかの如く強張り切っていた。
 テンの口元が緩んだ。相変わらずこの娘は『地味滋味と』不器用に生きているのだなと思うと、何やらとても可愛らしく、愛おしく、微笑ましい気持ちになった。そして『沁み染みと』十数年前のことを脳裏に思い出すのであった。体格も服装も大人っぽくなって、眼鏡をかけることで自己防衛を試みる知恵をつけたたぬ子であるがテンからしてみると何ひとつ、中味は相変わらず不器用すぎる化け狸なのだ。
「……はい、たぬ子。昔みたいにさ、息を吸ってー?……ほら、吸って。そしたらもう一度吐いて?」
 小さな手に力が入った。人混みと紅葉に視点が虚ろであったたぬ子はハッと我に返る。目の前に広がる人間たちの群れが、眠りに入る支度を始めた山々の静けさが、幼き日の山中でテンと過ごした日々として一気に柔らかな木漏れ日と化したのである。しかもあたかも昨日のことのように。ひっく、と息を飲んだ。酸素を吐き出し切った肺は澄み切った山の空気を遠慮なく取り込んだ。固まり切った脳味噌が息を吹き返し、二酸化炭素を吐き出すと同時に肩がすとんと落ちた。前を歩いていた父ことたぬ蔵と母ことたぬ江が「変な声」に振り返る。テンは落ち着いて目配せをして、少しだけ首を横に振った。たぬ蔵もたぬ江も、唖然とした娘の顔を見た瞬間に察したらしく、クスクスと笑いながら再び前を向いた。山頂はもうすぐそこだった。テンはたぬ子にゆっくりと話しかける。
「たぬ子。ほら、息を吸って。もう一度、吸って。一気に全部吐いて」
「あ、ちょ、ちょっと、テンさん恥ずかしいよ」
 我に返ったたぬ子の方は、熟したあけびのようにおろおろと震えた。困惑と動揺で眉を八の字に寄せている様が、これまたテンには懐かしいばかりだった。
 テンはよくたぬ子を化かした。幼い頃、変化の練習のとき、幼馴染こと森山コン介や兄貴分たる武佐飛むさしと喧嘩したとき、たぬ蔵と喧嘩して自分でも訳がわからないまま声を上げて泣いたとき、彼女はいつもこうした。狸なり狐なり所謂「化け獣」の化かし方は多種多様であるものだが、たぬ子は毎回このやり方にひっかかってしまうのである。単純に空気を吸って吸って、吐く。吸って吸って、再び吐きだす。頭の中がどんなにぐちゃぐちゃでも、呼吸をしなければたぬきは死んでしまう。テンはたぬ子が癇癪を起こしたときにはいつもそうして背中を擦ってくれた。殊にテンは闇雲に人や獣を化かすことを好まなかったものだから効果は抜群であった。
 吸って、吸って、吐いて。吸って、吸って、吐いて。吸って、吸って、吐いて。
 周りにぶつからないように歩きながら、息を吸って吐いた。十歩歩けば心が落ち着いて、もう十歩歩いたらなんだか贅沢に空気を消費している気もした。喉から出そうになっていた肝が本来の場所に座ったような気持ちだった。案外、悪くない。

 高尾山頂には高尾ビジターセンターなる建物がある。時折人間がイベントをしている小さめの建物だ。人間の多くは景色の良い広場の淵の方に集まっていた。
「お。たぬ子のやつ、やっと来た」
 暗めの黄色がかった茶色の髪を少し長めに伸ばしている少年と、その父と思しき髪色の壮年の男性、それからやや小柄ながらも筋肉質なスポーツ刈りの青年が小さな円を作ったままたぬ蔵一行に手を振った。たぬ蔵はちょっとだけほっとした顔をして、そこに加わるべく足を速めた。
 父子はいわずもがな、幼馴染こと森山コン介とその父こと森山コン三郎、実質的山長たる武佐飛むさしの三『人』であった。たぬ蔵一行の四『人』も加わって、輪が大きくなった。
「すみませんな。どうにも遅れてしまって」
 たぬ蔵が気まずそうに頭を掻いた。たぬ江はその横で悪びれもせず微笑んでいた。
「構いませんよ。コン介は夜も眠れなかったようだ。早朝からまだ出ないのかまだ行かぬのかと、結局変わりませんでしょうからな」
 落ち着きながらも苦笑気味のコン三郎の横で、コン介がへへっと笑った。
「たぬ子もたぬ子だけど、お前も変わってないねえ」
 テンもつられて笑う。
「で、なんでむさしがいるの?」
 きょとんとしたテンの疑問にむさしがごほんと咳払いする。実はこの二人もまた、コン介とたぬ子のような関係なのだった。
「亀爺が見送りに来たがってたんだ。孫みたいなもんだからな、たぬ子もコン介も」
「亀爺にしてみたら、我々すら孫のようなものでしょうな」
 コン三郎が落ち着いた声で、でも愉快げに言った。
「それで俺が木や枝で車椅子を作ったんだけど、亀爺が座った瞬間、ぶっ壊れた」
 むさしが随分真顔で言うものだから、またどっとした笑いが生まれた。
「強度が足りなかったらしい」
「車椅子は良い案だったのに、あんた化かすのがあまりに下手すぎるよ」
「俺はムササビだからな。お前には敵わん」
「いやいや、そういう話じゃなくてね」
 明るいテンと生真面目なむさしの会話を聞いているだけで、その場の空気が和んだ。たぬ子もコン介も、浮ついた気持ちがゆっくりと座る感覚を味わっていた。
「それで、已む無く俺が代わりに用件を伝えにきたんだ」
 たぬ蔵もたぬ江もコン三郎も楽しげに「山長代理は大変ですな」と口々に語り合っていた。
 むさしはたぬ子とコン介を見た。生真面目でまっすぐな黒い視線が、二人の肩を強張らせる。
「たぬ子、コン介、真面目に聞けよ。亀爺の言葉だ」
 二人は小さく顎を引いて、身を構えた。それを見たら周囲の四人までなにやら胃袋が掴まれたかのような緊張感を覚えた。むさしが諳んじる。
「壱、車には十分気をつけること。あれには甲羅も無力である。
 弐、食事に気をつけること。人間の食事は手を加えているから食い過ぎは体に毒。
 参、心置きなく、自由に学べ。山は動かない。疲れたらいつでも戻ってこい」
 むさしは右手でコン介を、左手をたぬ子の肩へと回してぐっと引き寄せた。力強くて温かい。
「……こうして抱いてやれんことを、とても残念に思う。気持ちを強く持てよ」
 むさしがゆっくりと体を離したとき、たぬ子もコン介も言葉にならない様子で目を開き、むさしを見つめたままだった。眼球が乾くほど大きく開き、瞬きすらできないでいた。
「お前らさ、帰ってくるときは上等なレタスと林檎と土産話を持ってきてやれよ。それで亀爺は嬉しいさ。だから無理だけはすんなよ」
 きっと寄せていたむさしの眉が優しく緩む。抱かれた肩をぽんぽんと叩くがさがさとした大きな手。独特の不恰好な肉球がないむさしの手は温かくて、肩からじんわりと何かが体に浸み込んでいく気がした。たぬ子の血液は体中を熱く巡り、目頭がツーンとした。コン介もまた、同様であった。頃合いをみてテンが静かに口を開く。

「――じゃあ、二人とも、そろそろ行こうか」

【つづく】