5話 下山

 わたくしこと高尾たぬ子は山を下りていた。人間の群れに混じりながら、山長代理こと兄貴分の武佐飛むさしの言葉が頭の中で回っていた。亀爺に会いたいと思った。これから山を下りて人間に化けて暮らす日がやってくるのだと思うと途端に郷愁に襲われる。
「おいおい、たぬ子ー。まだ山を下りたばっかりなんだからそんな顔すんなよ。な?」
 姉貴分かつ保護監督責任者のミス山中王者こと板地テンは困ったような笑いを浮かべながら明るい声をかける。実際には、まだ山を下りきってさえいない。「リフトに乗ってみたい」とはしゃぐコン介を下山の人間で混雑するリフト乗り場に残して、たぬ子とテンはてとてとと坂道を歩いて下っていた。舗装されているだけなんだか歩きなれなくて、脹脛が張ってしまう。
「ねえ、テンさん。コン介を置いてきて大丈夫だったの?」
 たぬ子がぽつりと話しかける。テンは困った笑顔のままで、少しだけ目を細めた。
「コン介は元々人間が好きだからさ。はしゃいでたけどちゃんと分別付けられる頭もあるし……できるだけ好きなことをさせてやってくれって、たぬ蔵おじさんとコン三郎おじさんと亀爺から頼まれてるのもあるしね」
 テンは一匹一匹の顔を思い出しながらゆっくりと答えた。あの日、むさしが山の麓の自宅に訪れた日が懐かしい。

「いくら私でも、四六時中ついていてあげられるなんてできないよ?」
「それでいいんだ。電車の乗り方とか金の使い方とか、そういうところは教えてやって、あとは二人の好きにさせてやればいい。そうすればコン介がたぬ子を外に連れ出すだろうし、たぬ子は二言目には『もう帰りたい』っていうだろう」
「それは想像つくし、コン介とセットでいさせた方が色々安全なのには賛成。でも、いきなりすぎやしないかなあ。この季節は色んなイベントがあるから、どっかで行方不明にならないか心配だよ」
「ああ。それで、これだ」
 ――むさしがテンに渡したものは、防犯ブザーのキーホルダーだった。どこから仕入れたのかGPS機能も備えているのでテンはいつでも二人の居場所がわかるという代物であった。
「……よくやるよ、本当」
 そう答えて、テンも腹を括った。整った彼女の口端が本当にほんの少しだけ楽しそうな弧を描いていたのはきっとむさししか知らないだろう。

 その防犯ブザーは今、たぬ子の背負うリュックサックでゆるゆると揺れている。リフト乗り場の混雑で辟易しているであろうコン介のリュックにも全く同じものがある。山内会はそのGPS付き防犯ブザーで二人を守ろうと考えたのだ。そしてテンもテンなりに、二人の為のスマートフォンを既に手配していた。全く自覚がないであろうまだまだ若い二人の獣は、こんなにも山の皆に愛されている。その事実はテンの気持ちを優しくさせたし、自分自身がこの山で生まれ育った事を何より嬉しく思わせてくれた。
「……テンさん、なんかしたの?」
 内心、期待と愉快で堪らないテンの様子にたぬ子が気付いて声をかける。
「ん? ああ、いやあ、コン介はそろそろリフトに乗れたかなあ、ってね」
 口から出たのは妙に上擦った声で、決して嘘ではないのだが、たぬ子はきょとんとする。
「確かにすごい行列だったけど、流石にもう下にいるんじゃない? ほら、あそこに『3』って看板があるし、私らもそろそろ着くんでしょ?」
 先ほどまで郷愁に浸って俯きがちだったたぬ子は道の端に建てられた『山の案内板』を指さす。その様子は普段のちょっと天然気味のたぬ子そのものだったから、テンは少しばかり驚いた。気付かないうちに、たぬ子も腹を括っていたらしい。そして、泣いたり逃げたりするばかりのたぬきから少しは成長していたんだと感じた。自分が山にいたときは、人見知りも獣見知りも獣付き合いも苦手で内気な子だったのに。年月は本当に、本当に早いものだという思いでテンの心はいっぱいになった。
 そうこうしている間に、たぬ子とテンは麓に着いた。山の麓にはかなり大きな広場になっていて、端の方では露店や土産屋が人を呼んでいる。ケーブルカー用の駅とリフト乗り場のふたつがあり、人の出入りが頻繁に行われているがコン介の姿は見当たらない。二人はコン介が乗っているであろうリフトの方の駅の傍で待つことにした。そしたら数分としないうちにリフトに乗ったコン介が下りてくる。慣れないリフトの下り方がなんだか生まれたての赤ちゃんきつねのようで、たぬ子は少し声をあげて笑ってしまった。
「テンさん! リフトすごいよ、俺は座ってるだけなのに景色が流れていったんだ。しかも目線が高くてさ! 俺、ムササビか鳥にでもなった気分だったよ!」
 コン介は周囲を顧みず、大きな声で感動を伝えた。
 興奮ぎみのコン介にテンは愉快げに、落ち着かせながら相槌を打つ。
「でも、人間は随分並ぶのが好きだよな。俺、待ってるだけでだいぶ疲れたよ」
「だから普通に歩いていけば? って言ったのに」
 たぬ子が苦笑気味に口を挟むと
「いや! でもなんか、並んでいるだけで人間っぽさを感じた! ああ、俺、今、すげえ人間になってるって思って、ちょっと感動しちゃったし! ほら見ろよ、これ! チケット! 俺はこのチケットを今後森山家に代々伝えるべき家宝にするんだ。親父を説得して!」
 と、なかなか興奮冷めやらぬコン介が一気にまくしたてる。それを聞きながら徒歩下山の二人ははいはい、と相槌を打っていた……のだが、急にたぬ子の目付きが鋭くなる。
「……待って、コン介、ちょっとそれ見せて」
「え、これ、俺の家宝だから無理」
「見るだけでいいんだってば、ちょっと見せてよ」
 決してチケットを放そうとしないコン介の手首をがっしりと握り、そのピンク色の小さな紙をたぬ子はまじまじと覗き込む。そしてコン介に負けず劣らず周囲を顧みない声をあげた。
「片道、よんひゃくはちじゅうえん!!」
 大きく目を見開いて、たぬ子は全身で驚愕を示した。
「よんひゃくはちじゅうえん、って、焼き団子よりも高いよ!? あの名物団子だってそれなりの値段なのに! 山から下りるだけで、しかもあんなに並んで、それで480円だなんて!!」
 ああ、これは【よくあるカルチャーショック】だなあとテンは思った。が、微笑に留めて何も言わない。大抵山から下りたばかりの獣は、まず人間の金銭感覚に眩暈を覚える。まさしくそれは「洗礼」といって過言でもないだろう。それでも二人には、今はわざと言わない。多分その方が、いや、きっと絶対楽しそうだから。
 コン介も、たぬ子が言いたいことは重々わかるのだろう。先ほどまでの熱がしゅんと落ち、言い訳でもするみたいに視線を逸らしてもごもごと答える。
「うーん……でもさ……、あの、高いのはわかるけどさ……。でもたぬ子。俺、今日の昼飯に食ったとろろ蕎麦、950円だったよ?」
 コン介がやや拗ね気味に唇を尖らせる前で、たぬ子はただただ驚くしかない。だからこそ出来得る限り大きく大きく目も口も開いて、肩を竦めて震えながら、人間社会最初の洗礼を全身で受けていたのであった。

「信じらんない!! 950円だなんて!! 新築の別荘用高級穴倉南向きが、ぽーんとザクロの一括払いで買えちゃう値段じゃんかよ!! なんだよそれー!!」

【つづく】