7話 ワンルーム

 随分と ―― 本当に、本当にただひたすら長い時間 ―― こうしていた気がする。

 私こと高尾たぬ子は割り当てられたワンルーム一間の入り口で膝をついていた。
 目に入るほぼ全てが、新しかった。その全てを指して、たぬ子の回らない頭は山の中で一生を過ごしていたら、その存在を空想することすらせずに死んでいたんだろうなあ、と、断言した。
 見るからに温かそうなベッド。落ち葉を敷き詰めて作った寝床よりずっと大きい。シーツの白が蛍光灯を反射して少し眩しいくらいだ。花のような、でも少し ―― 自分の語彙では上手く表現できない苦ったるさを感じる。たぶん、人工の、洗剤のようなもののにおい。
「……狸の姿だったら、父さんと母さんを呼んで……うん。三匹で寝ても、絶対余裕のサイズだ」
 ぼそりと呟いた独り言が蛍光灯の下で揺れる。それから数秒して、たぬ子は眉を顰めた。
 自分の口から「父さんと母さん」という言葉が出たことで、なんとも言いがたい、気恥ずかしさと憎々しさに襲われたから。

 高尾家は先祖代々東京郊外の山に住んでいる狸の一族だ。たぬ子の祖父も、そのまた祖父も、ずっと同じ場所に住んでいた。幼馴染みこと森山コン介の祖父も、そのまた祖父もだ。だから化けだぬきである高尾家と化けぎつねである森山家は、数百年単位の腐れ縁な幼馴染みでもある。
 だが、それは高尾家と森山家だけの話ではない。
 ムササビの武佐飛家も、テンの板地家も、他にもたくさん、たくさんの顔なじみたちが代々暮らしてきた。
 そして「新しい住人」も、積極的に受け入れてきた。
 まず山長の亀爺が昔から穏やかで優しい性格なので「人間に捨てられてしまった」と路頭に迷うカメが見つかったら、いつも自宅へと招待していた。そのまま居着いてしまっても、そしてとてつもなく繁殖してしまっても、亀爺は「そういうものだ」と微笑みながら皆々と日向ぼっこをしている。
 アカゲザルの猿山家の例だってある。彼らは元々自らを「ニホンザルです」と偽り、バレては引っ越してを繰り返す一族だった。この山でもやはり実はニホンザルではなかったとバレてしまう事件があり、これまでと同じように引越しの支度にかかり始めたアカゲザルたちの家には、翌日から次々と山の住人たちが押しかけたことがあったらしい。
「別にこのまま住んでてもいいんじゃないか? というか、そもそも引っ越さなきゃならない理由があったのか? 何か深い事情があるのかもしれないが、困った事や足りないものがあったら遠慮無く言えよ? いつでも帰ってきていいんだからな?」と、皆口々に別れを惜しんだ。しかも一番心配していたのが、ニホンザルたちだったんだ、と、当時を知る大人たちはよく酔った時の談笑のネタにしている。こそばゆさに真っ赤な顔の猿たちを、その輪の真ん中に置いて。

 でも、人間とだけは、あまり上手くやれなかった。

 より正確にいうなら、「上手く話し合いができなかった」とする方がいいのかもしれない。
 古くから人間に化けて、全体の意見をコントロールする者たちもいた。それでも譲歩に譲歩を重ねてきた方が多かった。
 一番最近では、人間たちの大きな戦争が終わった頃から、大規模な山焼きが行われ始めたこと。
 比較的都心部に近い地域の山林が切り崩され、所謂「ニュータウン」や「ベッドタウン」が作られだしたのである。木々を倒し、山を崩し、代わりに鉄筋コンクリートで出来た住宅やビルが作られた。
 その頃に、たぬ子が生まれていたかどうかはわからない。化け狸と人間とは加齢の仕組みが異なるから。しかし、たぬ子の両親はそれをまざまざと見てきていた。
「気がおかしくなりそうなくらいの騒音がずっと続いていたの。いつまで続くかわからない轟音や地響きがずっとね。実際に……そうね、ちょっと具合が悪くなってしまった獣たちも多かった。山や丘を崩されて、命からがら逃げてきた家族もいる。山中会は大変だったわよ、本当に。役員総出で移民者の名簿を作ったり、捕食関係にある種とは離れた場所に家を拵えてあげたりとかねえ……」
 あんな明るい母の、苦笑と疲労が滲んだ溜息を、たぬ子は忘れることができない。
 あの日は雨で、父は山中会の役員会議に行っていて、明け方まで帰ってこなかった。

 そこまで思い出して、やはりたぬ子は首を振った。
 心の中に天秤があるなら、少しだけ「帰りたくない」に傾いた。
 今、此処でやっぱり帰りたいと言ったら、恐らくコン介が怒るだろう。でもテンは、許してくれると思う。たぬ子の意志を尊重して、押し問答があったとしても頑なに言い張れば山に帰してくれるだろう。そしたらたぬ子は「やっぱり自分にはこの生活の方が合っている」と言い訳をして、穴蔵で冬を越すことが出来る。
 何も変わらない、寧ろ急展開すぎたこの引越し事件が解決したような、予定通りの冬が待っている。
 綺麗な部屋に微かに残る、先入者のにおいが鼻についた。不快ではなかった。寧ろ、本当によく掃除してあると思えるくらい、気にならないものだった。
 その数多の獣のものが混ざった微かな残り香に、たぬ子は猿山の影を見る。度々問題を起こすヤンキー崩れのガキ猿。たぬ子と大喧嘩した翌日に ―― もしかしたら当日の夜だったかもしれない ―― 荷物をまとめて山を下りた、正真正銘の馬鹿。
 コン介はどうしようもないけれど、猿山にだけ負けるのは、心の底から激しく強く絶対に絶対嫌だった。

「この山は登山者が多いでしょ? 昔からなんだけどね。だから管理がしっかりしてるし、人間を真似てルールを作ったりしているけれど、合わない獣はやっぱり一定数はいるの。特に戦後に移住してきた獣たちね。『うちの山ではこんなルールはなかった!』って。その辺りは父さんが詳しいわよ? すごく嫌な顔をしながら、教えてくれると思うけど」

 母ことたぬ江の言葉が蘇る。ひとつずつ、小さな箱の蓋が開くように。そのひとつずつが、たぬ子の思いを強くする。
 放心からは既に脱した。絶望だってどこかに行ってしまった。根拠の無い気合いだけが小柄で人型のたぬ子を支える。でも、それだけで、今は十分だ。
 コンコン、と部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「たぬ子ー。俺、テンさんの所に行くけど、まだ荷物に時間かかるー?」
 ドア越しにコン介の声が聞こえる。
「今いく!」
 それに短く返事をして、リュックと上着を放り投げる。
 小走りに玄関に向かって、靴につま先だけひっかけて外に出る。たぬ子にしては珍しい、迅速であり、非常に活動的な動きであった。
「……新しい部屋でも見て、テンションあがった?」
 コン介は確実に否定がくるだろう質問を投げかける。
 たぬ子は「ううん」と軽く首を振り、そして決意と熱意が合体した目で尋ねる。
「私でもなれるかな、人間と山の吊り橋」
「そうなる為に此処にいるんでしょ?」
 コン介はさも当然と言わんばかりの態度で、小さく小首を傾げた。
「そこはもっとでっかく、石橋ってくらい言うところだよ」

【つづく】